ドイツ軍がソ連へ軍事侵攻を始めてから85年目の6月22日
ウクライナを操っているNATOはモスクワやクリミアへの攻撃を実施しているが、使用しているドローンには石油を搭載、数機が防空システムを掻い潜って爆発しても派手に見えるようになっていた。西側諸国が得意なハリウッド映画風の演出だ。 その攻撃から85年前の6月22日、ナチス政権下のドイツ軍は同盟国の軍隊とともにソ連に軍事侵攻した。バルバロッサ作戦だ。その時に投入されたドイツ兵は300万人以上だが、西部戦線に残ったドイツ軍は100万人に満たなかった人と言われている。 この作戦を実行するのに必要な量の石油をドイツは保有していなかったのだが、アメリカのスタンダード石油から供給を受けていた。ドイツへ石油を直接売ることが難しくなったスタンダード石油はベネズエラにあった支社からスイス経由でドイツ占領下のフランスへ売り、そこからドイツへ運んでいたという。 バルバロッサ作戦が始まってから半年後の1941年12月7日、日本軍はマレー上陸作戦を開始、その直後にハワイの真珠湾にあったアメリカ軍基地を奇襲攻撃したのだが、当時、日本にも十分な石油がなかった。真珠湾攻撃の前に行われた試算によると、アメリカと戦争を始めれば3年目から石油が不足すると見通されていた。 日本軍は1939年5月から同年8月にかけてソ連軍とノモンハン付近で戦闘、惨敗した。そこでソ連へ攻め込むべきだとする「北進論」が日本軍の中で勢いを失っていた。1940年からは東南アジアの資源を狙った「南進論」に基づいて動き始め、その年の9月にはフランスが植民地にしていたインドシナを攻撃する。その地域にはイギリスの利権も存在していた。1941年7月に日本軍は「関東軍特種演習」という名目でソ連への軍事侵攻を計画したが、8月に中止が決まり、北進論は消えた。 フランクリン・ルーズベルト大統領はその当時、日本に対する石油の禁輸は「日本をインドシナへ駆り立てる」として消極的。日中戦争が始まる前、つまり1937年までの日本に対する石油輸出量は維持するとしていたが、アメリカでは財務省が石油代金の支払い方法で日本に圧力を加えていた。(岩間敏「戦争と石油(1)」石油・天然ガスレビュー、2006年1月) バルバロッサ作戦の準備に半年から1年は必要だっただろう。1940年6月から12月ということになるが、ドイツ軍は1940年9月から41年5月にかけてロンドンを空襲している。この攻撃でロンドン市民4万人から4万3000名が死亡したという。ソ連への軍事侵攻を計画していたであろう時期にドイツ軍はロンドンを攻撃していた。陽動作戦だった可能性がある。 ロンドンへの空襲が始まる直前、1940年5月下旬から6月上旬にかけてイギリス軍とフランス軍の兵士34万人がフランスの港町ダンケルクから撤退しているのだが、その際にアドルフ・ヒトラーは追撃していたドイツ機甲部隊に進撃を停止するように命じている。その命令は「謎」とされている。 バルバロッサ作戦の際にドイツ軍が西側に戦力をあまり残さなかったことと考え合わせると、ヒトラーには英仏軍を壊滅させる意思がなく、警戒もしていなかったように見える。(David M. Glantz, “The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001) ソ連へ攻め込んだドイツ軍は1941年7月にレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫る。ソ連軍は敗北し、再び立ち上がることはないと10月3日にヒトラーはベルリンで語り、ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015) ところが1941年12月からソ連軍の反撃が始まり、モスクワ攻防戦は翌月上旬にドイツ軍の敗北で終わる。1942年8月にドイツ軍はスターリングラード(現在のボルゴグラード)市内へ突入して市街戦になった。当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月になるとソ連軍が猛反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲され、1943年1月に生き残ったドイツの将兵9万1000名は降伏する。 それを見てチャーチルとルーズベルトはすぐにモロッコのカサブランカで会談、シチリア島とイタリア本土への上陸を決め、「無条件降伏」を要求し始める。 計画通り、その年の7月にアメリカ軍とイギリス軍はシチリア島に上陸する。ハスキー計画だ。9月にはイタリア本土を占領、イタリアは無条件降伏する。ドイツ軍の主力は東部戦線で壊滅していたわけで、難しい作戦ではなかった。すでに書いたように、この作戦を主導したのはアメリカ。チャーチルはバルカン半島からの攻撃を望んでいた。ノルマンディー上陸作戦はその翌年だ。最近はアメリカ軍とドイツ軍が戦ったと思っている人が少なくないようだが、これはハリウッドが作り出した御伽話にすぎない。 アメリカが参戦しなくてもヨーロッパではドイツが敗北し、ソ連が勝利することは確定的だったが、アメリカが参戦しなければ、東南アジアでイギリスは日本に利権を奪われることになる。イギリス政府の高官もアメリカの参戦なしに戦争で勝利できないことを理解していた。日本軍の真珠湾攻撃によってチャーチルは大英帝国を生きながらえることができたのだ。(Nu’man Abd Al-Wahid, “Debunking the Myth of America’s Poodle, Zero Books, 2020) 真珠湾攻撃で日本とアメリカとの戦争が始まったわけだが、日本にとってこの戦争がいかに無謀だったかを論じる人は今でも少なくない。確かにその通りだろうが、日本はすでに大陸で戦争を行い、泥沼化していた。1937年時点で中国側の戦力は1600万人、そこへ410万人の日本軍が侵攻したわけで、無謀としか言いようがない。中国を制圧することが不可能なことは最初から明白だった。なぜそのような無謀な侵攻作戦を実行したのだろうか? アメリカ人ジャーナリストのスターリング・シーグレーブとペギー・シーグレーブによると、日本軍は南京を攻略した1937年12月から組織的な財宝の略奪、いわゆる「金の百合」を始める。この略奪工作を指揮していたのは秩父宮雍仁で、補佐役は天皇の従兄弟にあたる竹田宮恒徳だという。秩父宮は駐日アメリカ大使を務めていたジョセフ・グルーとつながっていった。グルーのいとこはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻だ。(Sterling & Peggy Seagrave, “Gold Warriors”, Verso, 2003) ちなみに、上海派遣軍の司令官として南京攻略戦に参加、事実上の最高責任者だった人物は朝香宮鳩彦。昭和天皇の叔父にあたる人物だ。南京攻略の中心人物は秩父宮と朝香宮、つまり皇族のふたりだったとも言えるだろう。 金の百合作戦で日本軍が略奪した財宝の総重量は6000トンに達したと言われている。それらはフィリピンに集められ、そこから日本へ運ぶことになっていた野田が、戦争の途中で輸送が困難になり、フィリピンに隠すことになる。いわゆる「山下兵団の宝物」だ。運び出しに成功した金塊は東京にあるスイス系銀行、マカオにあるポルトガル系銀行、あるいはチリやアルゼンチンの銀行に運び込まれたという。(Sterling & Peggy Seagrave, “Gold Warriors”, Verso, 2003) 日本の敗戦が決まった当時、フィリピンを担当していた日本軍第14方面軍の司令官が山下奉文大将だったことからそう呼ばれるのだが、赴任してきた1944年9月に財宝の集積作業は終盤にさしかかっていた。作戦を指揮した人物とは言いがたい。 作業が進められていたと思われる1941年11月当時の第14軍司令官は本間雅晴中将、翌年8月からは田中静壱中将(当時)、43年5月からは黒田重徳中将、その次が山下大将だ。途中1944年に第14方面軍へ名称が変更された。このうち本間中将は1946年4月にマニラで刑死、田中大将は45年8月に自殺し、山下大将は46年2月にマニラで刑死している。 日本軍の財宝略奪作戦をアメリカやイギリスの情報機関は戦争中から知っていて、日本が降服するとすぐに回収工作を始めた。そして1945年10月中旬、OSS(CIAの前身)のエドワード・ランズデール大尉(当時)は財宝の隠し場所を日本軍の捕虜から聞き出すことに成功した。このランズデールはこの後、CIAの秘密工作に関わる。ジョン・F・ケネディ大統領の暗殺でも名前が出てきた。 1991年12月にソ連が消滅した後、アメリカをはじめとするNATO諸国はこの軍事同盟を東へ拡大させていく。NATOの東への拡大は「新バルバロッサ作戦」にほかならない。 ミハイル・ゴルバチョフが1990年に東西ドイツの統一を認めた際、NATOを東へ拡大させないという条件がついていた。その条件の存在を国務長官だったジェームズ・ベイカーは否定していたが、ドイツのシュピーゲル誌によると、アメリカはロシアに約束したとロシア駐在アメリカ大使だったジャック・マトロックが語っている。(“NATO’s Eastward Expansion,” Spiegel, November 26, 2009) また、ドイツの外務大臣だったハンス-ディートリヒ・ゲンシャーは1990年2月にエドゥアルド・シェワルナゼと会った際、「NATOは東へ拡大しない」と確約し、シェワルナゼはゲンシャーの話を全て信じると応じたという。(“NATO’s Eastward Expansion,” Spiegel, November 26, 2009) それ以外にも、例えばゴルバチョフ大統領やシェワルナゼ外務大臣に対し、統一後もドイツはNATOにとどまるものの、NATO軍の支配地域は1インチたりとも東へ拡大させないとベイカー米国務長官が1990年2月9日に語ったとする記録をジョージ・ワシントン大学のナショナル・セキュリティー・アーカイブが2017年12月に公開している。 バラク・オバマ政権は2014年2月にキエフでクーデターを成功させ、NATOはウクライナを飲み込もうとする。「新バルバロッサ」が始まろうとしていたと言えるのだが、ロシアのウラジミル・プーチン大統領は動かなかった。これはアメリカ側も意外に思ったようだ。 クーデターの後、ウクライナの軍や治安機関のメンバーは約7割が新体制に残ることを拒否、その一部は東部のドンバスで武装抵抗を始めた。一般のウクライナ人も同程度の比率でネオ・ナチが支配する新体制を拒否していた。 それをNATO諸国は力で押さえ込もうとしたのだが、反クーデター軍はキエフのクーデター軍より強く、西側諸国は「停戦」で時間稼ぎすることになったのだ。 そして2022年2月にNATOはウクライナでロシアと戦闘を開始するのだが、一貫して劣勢。アメリカやイギリスはウクライナのスラブ人とロシアのスラブ人に殺し合いさせ、共倒れになってから乗っ取ろうとしたのだろうが、ロシア軍が圧倒している。明治維新以降、日本はイギリスやアメリカの影響下にあり、アングロ・サクソンの支配者に従属することで富と地位を得てきた集団が存在している。そうした集団は「神風」が吹いてロシアが負けることを願っているようだが、神風は吹かない。**********************************************【Sakurai’s Substack】【櫻井ジャーナル(note)】