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《櫻井ジャーナル》

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2013.08.21
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 民主的に成立したイランの政権をアメリカとイギリスが1953年にクーデターで倒したことを認める文書をCIAが公開した。すでに常識になっている話だが、CIAが「公式」に認めたということ。クーデターの目的は、言うまでもなく、石油だ。

 ペルシャ(イラン)で石油が発見されたのは1908年。油田地帯と知られていたバクーの南ということもあり、イギリス人のウィリアム・ノックス・ダーシーが目をつけ、イラン側と交渉した末、1903年から試掘を始めている。

 しかし、なかなか成果は得られない。1904年には資金繰りが苦しくなり、バーマー石油がスポンサーについた。大油田が発見されたのはその4年後のことだ。撤退を決める寸前だった。1909年にバーマー石油はAPOCを子会社として創設、1935年にAIOC、1954年にはBPへ名称が変更された。

 1914年から18年にかけて第1次世界大戦があり、イギリスとフランスを中心とする勢力が勝利する。途中、ドイツはイギリスを兵糧攻めにするため、潜水艦で無差別攻撃を実施したが、これが裏目に出る。アメリカが参戦する前に勝利するというドイツの思惑は外れ、アメリカ国民を刺激してアメリカがイギリス/フランス側につくことになり、大勢は決してしまったのだ。

 当初、ロシアもイギリスやフランスと手を組んでいたのだが、1917年にロシア革命があり、戦争から離脱する。

 革命の第1幕は3月の「2月革命」。これで王制は崩壊、資本主義色の濃いカデットが臨時革命政府をつくる。このとき、ウラジミール・レーニンなどボルシェビキのリーダーは大半が亡命中か投獄されていて、革命にはほとんど参加していない。臨時革命政府に批判的な勢力は、この政府をイギリスの傀儡だとみなしていた。

 レーニンたちを革命の舞台へ押し出したのはドイツ。戦争に反対していたボルシェビキに目をつけ、レーニンたちの帰国を助けたのである。帰国したボルシェビキは活動を開始するものの主導権を奪えず、レーニンらは再び亡命、レフ・トロツキーらは拘束される。

 8月になると臨時革命政府で軍を指揮していたラーブル・コルニーロフが反乱、アレクサンドル・ケレンスキー首相は拘束されていたトロツキーを釈放して対抗させた。その思惑どおりにトロツキーはコルニーロフの反乱は抑え込むのだが、11月の「10月革命」につながり、ボルシェビキの政権が誕生してしまう。

 新政権は即時停戦を宣言、無併合無賠償、民族自決、秘密外交の廃止も打ち出した。「2月革命」と「10月革命」は全く異質であり、これを混同すると歴史の流れが見えなくなる。(意図的に混同している人もいるようだが)

 世界大戦が終わった直後の1919年、イギリスはペルシャを保護国にしている。1921年には陸軍の将校だったレザー・ハーンがテヘランを占領、その4年後にはカージャール朝を廃して「レザー・シャー・パーレビ」を名乗るようになった。これがパーレビ朝のはじまり。

 1935年に国名をペルシャからイランへ変更、その4年後にドイツ軍がポーランドに軍隊を侵攻させる。当時、ドイツ本国と東プロイセンの間にポーランド領、いわゆるポーランド回廊があり、東プロイセンは飛び地になっていた。この領土問題の話し合いがこじれての軍事行動だった。ポーランドの背後にはイギリスがいたと言われている。

 大戦が勃発した後、イギリスやソ連はイラン政府に対してドイツ人を国外へ出すように求めたが拒否され、英露両国は1941年にイランへ軍事侵攻する。そのときに国王は国外追放、息子のムハマンド・レザーが新しい国王に就任した。後にアメリカも軍隊を派遣している。

 イラン国民から見れば、王室にしろ、外国資本にしろ、自分たちを食い物にしているだけ。1951年にはアリ・ラズマラ首相が暗殺され、後任に選ばれたのがムハマド・モサデク。議会はAIOCの国有化を決定、アバダーン油田も接収された。

 こうした政策に怒ったイギリス側はイランに圧力をかけ、モサデクは4カ月後に辞任する。ところがイランの庶民はこの首相交代に怒り、モサデクはすぐに復活することになった。これに対してAIOCは石油の生産と輸送を止めることで対抗、苦境に立たされたイランはソ連に接近する。

 そうした中、石油と深い関係にあるウィンストン・チャーチルが1951年に首相復帰、53年にドワイト・アイゼンハワーが大統領に就任するとイランに対する秘密工作が本格化していく。

 アイゼンハワー政権の国務長官はジョン・フォスター・ダレス、CIA長官はアレン・ダレス。このダレス兄弟はふたりともウォール街の大物弁護士であり、ふたりが所属していたサリバン・アンド・クロムウェル法律事務所の顧客リストにはAIOCも含まれていた。

 イギリスはアメリカにクーデターを持ちかけ、1953年に両国はモサデクを排除することに成功する。国王として復活したパーレビは「近代化」を推進するが、これは国王や外国資本が富を総取りする仕組み。貧富の差は拡大し、外国資本が富を持ち去るという構図も変化がなかった。そのひとつの結果が1979年のイスラム革命。現在、アメリカやイスラエルがイラン攻撃を主張している理由も自ずからわかるだろう。





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最終更新日  2013.08.21 17:24:00



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