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《櫻井ジャーナル》

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2014.03.27
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 アメリカの支配層が民主的でないことは歴史を振り返ればわかる。先住民を虐殺しながら東海岸から西へ向かって侵略を続け、その先住民を「保留地」に強制収容して土地を奪い、「アメリカ」なる国は出来上がった。シャイアン族とアラパホー族に対して行った「サンドクリークの虐殺」は1864年のことであり、スー族が犠牲になった「ウンデット・ニーの虐殺」は1890年のことだ。

 その後、目を向けたのがスペインの支配下にあった南の地域。1897年にウィリアム・マッキンリーが大統領に就任、キューバの独立運動を支援するという口実で介入を始め、1898年の「メイン号爆沈事件」を利用して軍隊を派遣し、スペインと戦争になる。

 この戦争で勝利したアメリカはキューバの「独立」を認めさせただけでなく、ハワイを支配、フィリピンも手に入れた。メイン号の事件はアメリカの自作自演だと考える人が少なくない。フィリピンは中国市場へ乗り込む橋頭堡になる。

 1900年の大統領選挙で再選されたマッキンリーは再選されるが、翌年に暗殺され、副大統領のセオドア・ルーズベルトが跡を継ぐ。そして始められたのが「棍棒外交」。対外債務で苦しむベネズエラに内政干渉、ドミニカやキューバを保護国化してしまう。こうした侵略政策は、フランクリン・ルーズベルトが大統領に就任、善隣外交を打ち出す1933年まで続いた。

 この1933年にウォール街、つまりアメリカの巨大金融資本は、ルーズベルト大統領を引きずり下ろしてファシズム体制へ移行させるため、クーデターを計画した。この事実は本ブログで何度も書いてきたことだ。ちなみに、ウォール街は関東大震災が日本の首都を襲った1923年以降、日本に大きな影響力を及ぼしている。

 その当時、ウォール街と最も強く結びついていたと考えられている人物が井上準之助。1920年に行った対中国借款の交渉でJPモルガンを率いていたトーマス・ラモントと親しくなったようだ。

 JPモルガンの総帥、ジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻と親戚関係にあるのが駐日大使になり、戦後はジャパン・ロビーの中心メンバーとして日本を「右旋回」させたジョセフ・グルー。彼も日米関係を考える上で忘れてはならない人物である。

 第2次世界大戦後、アメリカは破壊活動を実行させるために極秘機関のOPCを創設、後にCIAへ入り込んで「計画局」(後に「作戦局」へ名称変更、さらにNCSになる)の中核になる。その一方、西ヨーロッパでもイギリスと共同で秘密の「残置部隊」を設立、後に西ヨーロッパの「左翼」を潰す工作を開始、「NATOの秘密部隊」と呼ばれるようになった。

 この秘密部隊の中でも最も有名なイタリアのグラディオは1960年代から1980年頃にかけて「極左」を装った爆弾攻撃を繰り返して「左翼陣営」に大きなダメージを与えた。フランスのシャルル・ド・ゴール大統領の暗殺未遂、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領暗殺、あるいはイタリアのアルド・モロ元首相の誘拐/殺害などでも名前が浮上している。

 そして1980年代、ロナルド・レーガン大統領の時代にアメリカの一部支配層はクーデターの準備を始める。COGだ。この計画を起動させたのが2001年9月11日の出来事である。このプロジェクトについては本ブログでも何度か書いたことなので今回は割愛する。

 ラテン・アメリカの軍事独裁政権にしろ、「NATOの秘密部隊」にしろ、「元ナチス」やネオ・ナチと深く結びついている。リビアやシリアでの戦争でイスラム教スンニ派の武装勢力(アル・カイダ)を今でも戦闘員として使っていることが確認できた。ウクライナの体制転覆プロジェクトでネオ・ナチが中心的な役割を果たしたのは必然だと言えるだろう。ウクライナのネオ・ナチを率いてきたひとり、アレキサンダー・ムージチコ(別名サーシャ・ビリー)を殺害したところで、本質的な変化はない。





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最終更新日  2014.03.27 15:57:04



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