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《櫻井ジャーナル》

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2016.08.22
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中国の程永華駐日大使は今年6月後半、南シナ海に関する要求で譲歩したり主権を放棄することは戦争が勃発する事態になってもありえないと日本側に警告していたと伝えられている。アメリカが展開している「航行の自由」作戦に自衛隊の艦船が参加した場合、軍事行動もありえ、そこから全面戦争に発展することもありえるということのようだ。

 6月1日に安倍晋三首相は官邸記者クラブのキャップと懇親、その席で記者たちに中国との戦争を想定していると受け取れる発言をしたようだ。オフレコの会だったというが、そこで「安全保障法制」、いわゆる戦争法制は「南シナ海の中国が相手」だと口にしたという。この話は週刊現代のサイトで取り上げられ、国外でも問題になった。それだけの覚悟ができているなら、まさか、中国大使の警告に驚きはしなかっただろう。

 そうした状況の中、日本政府はフィリピン政府と巡視船2隻の貸与に関して話し合いを進めていると外務副報道官の大鷹正人は語ったと報道された。貸し出される艦船の全長は90メートル程度だとされているので、おそらく「ひだ型巡視船」。偵察機も貸すようだ。

 しかし、現在のフィリピン大統領ロドリゴ・ドゥテルテは前任者でアメリカの傀儡であるベニグノ・アキノ3世とは違い、中国と話し合いを進めている。自らの意思で日本から巡視船を借りる理由がわからない。海上保安庁の巡視船を貸し出し、フィリピンの責任で南シナ海を航行させたいというアメリカや日本の意向に沿う話し合いなのだろう。

 南シナ海の軍事的な緊張を高めているのはアメリカが紛争海域に軍艦や航空機を派遣して武力を誇示しているからだと中国側は主張、そのアメリカは「国連海洋法条約」に加盟していないと指摘している。

 そのアメリカは日本を使い、1970年代の終わり頃からシーレーン防衛という名目で日本に海軍力を高めさせようとしてきた。中東から石油や天然ガスを運ぶルートを守るためだと言われたが、これだけの距離を守ることは不可能に近い。

 アメリカや日本の支配層もそうした不可能なことを考えていたわけではないだろう。最もありそうな目的は他国の海上輸送を妨害すること、つまり中国のエネルギー源輸送を断つことにあったと考えるべきだ。

 当然、中国はアメリカの動きを警戒する。そこで、マラッカ海峡を避けるため、ミャンマーやパキスタンにパイプラインを建設しようと計画した。それに対し、アメリカはミャンマーとの関係改善を図り、事実上、アウン・サン・スー・チーが支配する体制を作り上げている。

 ウォール街は第2次世界大戦で日本が降伏した直後から中国支配を狙ってきた。その手先と考えられていたのが国民党。1945年4月、ドイツが降伏する前の月にフランクリン・ルーズベルト大統領が急死してホワイトハウスの主導権をウォール街が奪還、親ファシスト/反コミュニスト、そして植民地を肯定する方向へアメリカの舵は切られた。

 しかも、1944年9月にソ連駐在のアメリカ大使だったアベレル・ハリマンはモスクワでソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外相から中国共産党を援助しないと言われた。1945年4月にヨシフ・スターリンやモロトフと会談したパトリック・ハーレーによると、スターリンは蒋介石に好意をよせていたともいう。国際連合の創設に関する会議に中国共産党の代表を呼んだのはアメリカのルーズベルト大統領だった。(堀田善衛著『上海にて』筑摩書房、1959年)

 そのルーズベルトが死んだことで、中国は蒋介石が率いる国民党が制圧すると見る人は多かったようだが、実際は違い、1949年1月に解放軍が北京へ無血入城し、コミュニストの指導部も北京に入り、5月には上海を支配下におく。中華人民共和国が成立したのは10月のことだ。

 大戦後、アメリカは破壊工作を目的としたOPCを創設、東アジアにおける拠点は上海に置かれていた。その上海が解放軍に制圧される見通しが立つと、拠点を日本へ移動させている。その拠点の数は6カ所で、中心はアメリカ海軍の厚木基地だった言われている。

 その1949年の夏、日本では国鉄を舞台とした「怪事件」が続いた。下山事件、三鷹事件、そして松川事件だ。1950年末までにOPCは日本で1000人以上を訓練、ゲリラ戦の戦闘員として戦争が行われていた朝鮮半島へ送り込まれている。(Stephen Endicott & Edward Hagerman, "The United States And Biological Warfare", Indiana University Press, 1998)

 1950年10月にOPCはCIAへ吸収され、翌年の1月にはアレン・ダレスがCIA副長官になる。それ以前から破壊活動は「民間人」のダレスが指揮していたのだが、副長官に就任した意味は小さくない。1952年にOPCが中心になって計画局が設置された。(後に作戦局へ名称変更、さらにNCS/国家秘密局へ)

 朝鮮戦争が勃発したのは1950年6月25日。朝鮮軍が先制攻撃したことになっているのだが、その前から小規模の軍事衝突はあったという。また、その当時、ダグラス・マッカーサーに同行して日本にいた歴史家のジョン・ガンサーによると、半島からマッカーサーに入った最初の電話連絡は「韓国軍が北を攻撃した」というものだったという。(F. William Engdahl, “Gods of Money”, Progressive, 2009)

 朝鮮戦争が勃発する3日前、アレン・ダレスの兄であるジョン・フォスター・ダレスは朝鮮半島から日本へわたり、吉田茂と会談した後にニューズウィーク誌の東京支局長だったコンプトン・パケナムの家で夕食会に参加している。日本側から出席したのは大蔵省の渡辺武、宮内省の松平康昌、国家地方警察企画課長の海原治、外務省の沢田廉三だ。

 1951年4月には約2000名の国民党軍がCIAの軍事顧問団とともに中国領内に侵入して一時は片馬(ケンマ)を占領、翌年の8月にも中国へ侵攻して国境から約100キロメートルほど進んだが、この時も人民解放軍の反撃で失敗に終わっている。

 朝鮮戦争は1953年7月に休戦協定が成立するが、その2カ月前にベトナムではアメリカの支援を受けていたフランス軍がディエンビエンフーで北ベトナム軍に包囲され、翌年の5月にフランス軍は降伏した。

 その前、1953年1月にドワイト・アイゼンハワー政権が成立し、ジョン・フォスター・ダレスが国務長官に就任する。ジョン・フォスター長官は翌年の1月にNSC(国家安全保障会議)でベトナムにおけるゲリラ戦の準備を提案、それを受けてCIAはSMMを編成して秘密工作が始まる。

 1961年に大統領となったジョン・F・ケネディは核戦争の危機を外交で乗り切り、63年6月にはアメリカン大学の学位授与式(卒業式)でソ連との平和共存を訴えた。さらに、同年10月にはNSAM263を出し、1963年末にアメリカの軍事要員1000名を撤退させ、65年12月までに1万1300名を完全撤退させる方針を打ち出した。これを受け、アメリカ軍の準機関紙と言われるパシフィック・スターズ・アンド・ストライプス紙は「米軍、65年末までにベトナムから撤退か」という記事を掲載している。

 言うまでもなく、こうした方針は1963年11月にケネディがダラスで暗殺され、実現しなかった。後任のリンドン・ジョンソンは本格的な軍事介入へと進んでいる。

 ダレス兄弟は共にウォール街の大物弁護士。つまりアメリカの巨大資本の代理人として活動していた。このふたりの動きを見ると、朝鮮戦争もベトナム戦争も中国を制圧することが最終的な目的だった可能性が高そうだ。

 ベトナム戦争の停戦が確定的になったタイミングでリチャード・ニクソン米大統領が中国を訪問しているが、これを偶然と解釈すべきではないだろう。そのニクソン政権はデタント(緊張緩和)へ舵を切るが、スキャンダルで失脚し、副大統領から昇格したジェラルド・フォード政権政権ではドナルド・ラムズフェルドやリチャード・チェイニーらが中心になってデタント派の粛清が行われた。ネオコンが台頭してくるのはこの政権からだ。

 ネオコンは1992年のはじめ、ソ連消滅の直後に世界制覇プランを作成したことは本ブログで何度も書いてきた。その基本戦術は買収と恫喝であり、その手法が通用しないロシアや中国との間では、軍事的な緊張を高めることになっている。ロシアと同様、中国もアメリカの好戦派は交渉で物事を解決できる相手ではないと認識、腹をくくったように見える。日本人も中国やロシアとの核戦争を覚悟しなければならない段階に突入してしまった。






最終更新日  2016.08.23 11:03:01

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