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《櫻井ジャーナル》

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2019.01.01
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 ケネディ大統領が暗殺された翌年の1964年に中国が初めて核実験を実施、日本政府はこの出来事にすぐ反応、内部で核武装への道を模索する動きが具体的に出始めている。(Seymour M. Hersh, “The Price of Power”, Summit Books, 1983)

 NHKが2010年10月に放送した「“核”を求めた日本」によると、1965年にアメリカを訪問した佐藤首相はリンドン・ジョンソン米大統領に対し、「個人的には中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきだと考える」と伝えている。

 佐藤首相は1967年の訪米時、「わが国に対するあらゆる攻撃、核攻撃に対しても日本を守ると言うことを期待したい」とアメリカ側に求め、ジョンソン大統領は「私が大統領である限り、我々の約束は守る」と答えたという。(「“核”を求めた日本」NHK、2010年10月3日)

 その一方、日本政府は1969年2月に西ドイツ政府と秘密裏に会談し、核武装によって超大国への道を歩もうと持ちかけたという。

 この提案を西ドイツは拒否したというが、それでも日本側はあきらめない。10年から15年の期間で核武装すると想定、核爆弾製造、核分裂性物質製造、ロケット技術開発、誘導装置開発などについて調査し、技術的には容易に実現できるという結論に達している。

 日本政府が西ドイツ政府と秘密会談していた1969年にアメリカの大統領はリチャード・ニクソンになっているが、その大統領補佐官を務めていたヘンリー・キッシンジャーは彼のスタッフに対し、日本もイスラエルと同じように核武装するべきだと語っていたという。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” Random House, 1991)

 それに対し、1977年1月から81年1月までアメリカ大統領だったジミー・カーターは日本の核武装に反対、兵器級のプルトニウムを生産させないために高速増殖炉の常陽からブランケットを外させたという。

 しかし、1981年にロナルド・レーガンが大統領に就任するとアメリカ政府の内部に日本の核武装計画を支援する動きが出てくる。例えば、東海再処理工場に付属する施設として1995年に着工されたRETF(リサイクル機器試験施設)はプルトニウムを分離/抽出するための施設だが、この施設向けににアメリカ政府が提供した技術の中には「機微な核技術」、つまり軍事技術が含まれていた。

 ジャーナリストのジョセフ・トレントによると、​東京電力の福島第1原発が過酷事故を起こした当時、日本には約70トンの兵器級プルトニウム​があったという。トレントに限らず、アメリカの情報機関は日本が核兵器を開発してきたと確信している。

 ロナルド・レーガン時代のアメリカでは増殖炉計画がスタート、1980年から87年にかけての期間にエネルギー省は160億ドルを投入したというが、87年に議会はこの計画への予算を打ち切る。そこで目をつけられたのが日本の電力業界。共同研究という形で研究資金の大部分を負担させ、その代償として核関連の技術を格安の値段で売り渡しすことにしたのだ。そして高性能プルトニウム分離装置がサバンナ・リバー・サイトからRETFへ移転されたのである。

 福島第1原発が事故を起こす3日前に出たインディペンデント紙、つまり2011年3月8日付けの紙面には石原慎太郎のインタビュー記事が掲載されていた。それによると、​外交力とは核兵器なのであり、核兵器を日本が持っていれば中国は尖閣諸島に手を出さないだろうと石原は発言​したという。核兵器で脅せば相手は屈するというネオコン的な発想だ。

 こうした発想が石原だけのものではないだろう。どこかの時点で日本政府が隣国を核兵器で威嚇しても不思議ではない。ロシアのウラジミル・プーチン政権は核兵器の使用が破滅的な結果をもたらすと再三警告しているが、それを日本の支配層、つまりネオコンのようなアメリカ支配層の代理人が理解できるかどうかは不明だ。少なくとも石原は理解できていなかった。(つづく)

 





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最終更新日  2019.01.01 13:43:41



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