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旧聞に属す話だが、森喜朗の女性に関する2月3日の発言が問題になっていた。「東京五輪・パラリンピック組織委員会」の会長だった森は日本オリンピック委員会(JOC)の臨時評議員会で「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります。」「女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。」というようなことを口にしたというのだ。会議で発言するのは当然であり、発言しないのは問題である。男性理事は発言しないのだろうか。 日本の会議は民主的なプロセスを踏んでいる形式を作るための儀式にすぎないことが少なくない。全ては事前に決まっているのだ。根回しならともかく、飴と鞭が駆使される。政治の世界では官僚が全てプランを作成し、政治家なり委員なりはそれを承認するだけということもあるようだ。会議の出席者は裏で暗躍している人びとの決めたことに従っていれば良いということ。その仕組みに女性が従わないと森は不満を口にしたように聞こえる。 この問題を「女性蔑視」と考えるべきではないだろう。支配と服従の問題である。JOCの臨時評議員会に出てくるような男性は権力に服従しているということだろうが、性別の問題ではない。服従を拒否する男性もいるが、支配システムの枠組みの中で成功することは困難であり、もし、そうした人が出てきても排除される。ところが、今ところ、女性は排除しにくい。 スポーツ、特に個人競技の場合、男性であろうと女性であろうと、強い意思と判断力がなければ世界のトップを争うことはできない。「頭のない鶏」状態で勝てる種目は限られているだろう。強い意思と判断力を持ちながら自分たちに従属することを権力者は願っているのかもしれないが、そう都合良くは行かない。 格闘技でも言えるが、試合で勝つには集中する必要がある。「無心」ということも言われたが、雑念を払い、集中するということだろう。「楽しむ」のも集中するひとつの方法だ。スポーツは所詮、遊びである。難行苦行を重ねれば良いというものではない。修道士ではないのだ。ところが、一時期、そうしたことが行われていた。戦時体制下、生き残りをかけてスポーツ界は軍事教練色を強め、「国威発揚」になることを訴えていたのだ。そうしたことが戦後も引き継がれ、さらに軍隊経験をスポーツの世界へ持ち込み、絶対服従の世界が形成された。プロ・スポーツでもそうしたことは見られる。そうした世界を「独立系女性」が崩しているのではないだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.03.02 22:29:36
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