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東北地方の太平洋沖で大規模な地震が発生したのは2011年3月11日のことだった。地震が起こってから約1時間後に全ての電源が失われて炉心を冷却できなくなり、その時点で炉心溶融は不可避。元東電社員の木村俊雄によると、「過渡期現象記録装置データ」から地震発生から約1分30秒後、つまり津波が来る前から冷却水の循環が急激に減少し、メルトダウンが始まる環境になったとしている。 事故前に原子力安全基盤機構が作成していた炉心溶融のシミュレーション画像を見ると、全電源喪失事故から30分ほど後にメルトダウンが始まる。約1時間後には圧力容器の下にデブリ(溶融した炉心を含む塊)が溜まり、約3時間後に貫通して格納容器の床に落下、コンクリートを溶かし、さらに下のコンクリート床面へ落ち、格納容器の圧力が上昇、外部へガスが漏洩し始めると予想されている。実際にデブリがどうなっているのかは明確でないが、その一部が地中へ潜り込み、地下水で冷却されている可能性もある。 東電はデブリを冷やしている水を全て回収、トリチウム以外の「ほとんどの放射性物質」を除去した上で保管しているとしているが、原発の周辺は水の豊かな場所。その地下水は汚染水となり、補足されていないルートを通って海へ流れ出ていることも考えられる。 汚染水を全て回収、保管できているとしても、2022年秋には限界点に到達するので、その前に「薄めて」大気中や海洋へ放出するしかなくなりそうだ。かつて、公害が問題になった時も「薄める」という儀式を行った上で環境中へ放出していた。排水溝の近くの海から水をくみ上げ、廃液とまぜて濃度を下げるという子ども騙しのようなことが行われていたのである。言うまでもなく、汚染物質の総量に変化はない。 3月12日には1号機で爆発があり、14日には3号機も爆発、15日には2号機で「異音」が聞かれ、4号機の建屋で大きな爆発音があった。4号機は稼働していなかったとされているが、使用済み核燃料プールの中には1500本を超す燃料棒が入っていて、この原発全体では1万本を超していたとされている。 このプールが倒壊した場合、放出される放射性物質で近くの福島第2原発や女川原発へも影響が及ぶことは避けられなかった。その福島第2原発、女川原発、東海第2原発も地震で冷却が不能になる寸前だったと言われている。こうした原発もメルトダウンしていたなら、東日本は壊滅していただろう。 日本政府は2051年までに廃炉させるとしていたが、イギリスのタイムズ紙はこの原発を廃炉するまでに必要な時間を200年だと推定。数百年はかかるだろうと考える人もいる。その間、放射性物質は環境中に垂れ流されるだろう。廃炉作業が終了しても10万年にわたって放射性廃棄物を保管ならないと言われている。原発事故の先は見えない。 環境中に放出された放射性物質の影響は早い段階から報告されていた。原発の場合被害を隠す仕組みは存在していたが、それでは隠しきれない状態だったのだ。 例えば、医療法人の徳洲会を創設した徳田虎雄の息子で衆議院議員だった徳田毅は事故の翌月、2011年4月17日に自身の「オフィシャルブログ」(現在は削除されている)で次のように書いている: 「3月12日の1度目の水素爆発の際、2km離れた双葉町まで破片や小石が飛んできたという。そしてその爆発直後、原発の周辺から病院へ逃れてきた人々の放射線量を調べたところ、十数人の人が10万cpmを超えガイガーカウンターが振り切れていたという。それは衣服や乗用車に付着した放射性物質により二次被曝するほどの高い数値だ。」 事故当日にメルトダウン、つまり内部は破壊されて温度と圧力は急上昇、放射性物質は環境中へ放出されはじめる。12日の午後2時半頃にベント(排気)したとされているが、双葉町ではベント前に放射線量が上昇していたと伝えられている。そして午後3時36分に爆発。 建屋の外で燃料棒の破片が見つかるのだが、この破片についてNRC(原子力規制委員会)新炉局のゲイリー・ホラハン副局長は2011年7月28日に開かれた会合で、発見された破片は炉心にあった燃料棒のものだと推測できるとしている。マンチェスター大学や九州大学の科学者を含むチームは原子炉内から放出された粒子の中からウラニウムや他の放射性物質を検出した。 事故当時に双葉町の町長だった井戸川克隆によると、心臓発作で死んだ多くの人を彼は知っているという。セシウムは筋肉に集まるようだが、心臓は筋肉の塊。福島には急死する人が沢山いて、その中には若い人も含まれているとも主張、東電の従業員も死んでいるとしている。 事故で環境中に放出された放射性物質の放出総量はチェルノブイリ原発事故の1割程度、後に約17%に相当すると発表されているが、その算出方法に問題があるとも指摘されている。 この計算の前提では、圧力抑制室(トーラス)の水で99%の放射性物質が除去されることになっているが、今回は水が沸騰していたはずで、放射性物質の除去は困難。トーラスへの爆発的な噴出で除去できないとする指摘もある。そもそも格納容器も破壊されていた。 原発の元技術者であるアーニー・ガンダーセンは少なくともチェルノブイリ原発事故で漏洩した量の2~5倍の放射性物質を福島第一原発は放出したと推測している(アーニー・ガンダーセン著『福島第一原発』集英社新書)が、10倍程度だと考えても非常識とは言えない。 本来、人間の健康を考えなければならないWHOも信頼できない。この組織はIAEA(国際原子力機関)と関係が深いのだ。以前にも書いたことだが、1959年にWHOとIAEAはある合意文書に調印している。その第1条第3項の規定により、一方の機関が重大な関心を持っている、あるいは持つことが予想されるテーマに関するプログラムや活動の開始を考えている場合、プログラムや活動を考えている機関はもうひとつの機関に対し、問題を調整するために相談しなければならない。 つまり、IAEAの許可がなければ、WHOは放射線の健康被害に関して発表することはできない。放射線被害の問題でWHOに期待することはできないということだ。 WHOが影響を受けている相手はIAEAのほかにも存在する。WHOにはさまざまな国や団体が寄付、最も多いのはアメリカだが、その次はCOVID-19の恐怖を煽り、ワクチンを接種するように宣伝しているビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団だ。この財団は巨大な私的権力の実働部隊にすぎないだろう。 事故を隠す仕組みも存在する。例えば、福島第2原発では1989年1月に冷却水再循環ポンプ内へボルトや座金が脱落、それが原子炉内に流入するという重大な事故が引き起こされたのだが、前年の暮れからポンプ内で振動があり、警報も鳴っていた。ところが東電の指示で運転を続けていたという。 しかも、この事故を東電や国は県へ速やかに報告していない。2002年8月には東電による点検記録の改竄を国が報告していなかったことを県は知った。当然のことながら当時の知事、佐藤栄佐久は怒り、国や東電が進めていたプルサーマル計画の了承を取り消して東電管内の原発稼働を拒否した。 再稼働が認められた2006年7月当時、佐藤知事は厳しい状況に陥っていた。知事の弟である祐二が土地取引に関して検察から取り調べを受けていたのだ。9月に祐二は逮捕された。県議会内では知事の辞職を求める声が高まり、辞職を表明せざるをえなくなる。 そして10月、佐藤栄佐久は東京地検特捜部に収賄の容疑で逮捕されてしまった。懲役2年、執行猶予4年の判決が確定しているが、裁判の記録を読むと、冤罪だった可能性が高いと言わざるをえない。 この事件は東京地検特捜部が捜査したのだが、それを特捜部の副部長として指揮したのが佐久間達哉。この人物が特捜部長だった2009年11月、政治収支報告書における虚偽記載の問題に絡んで小沢一郎が告発されるが、この問題も事実上、冤罪だった。 福島第1原発の事故を引き起こした責任は東電の旧経営陣だけでなく検察や裁判所にもある。原発政策を推進してきた官僚や政治家、その政策で甘い汁を吸ってきた関連企業、広告会社、マスコミなども責任を免れない。 原子力の闇は深いのだが、闇を深くしている理由のひとつは核兵器にある。日本でも核兵器の研究開発が第2次世界大戦の当時から始められた。理化学研究所の仁科芳雄を中心とした陸軍の二号研究と海軍が京都帝大と検討していたF研究が知られている。 仁科グループは1943年1月に研究をスタートさせ、44年3月には濃縮実験を始めているが、保有するウランの絶対量が少ない。陸軍は福島県石川郡でのウラン採掘を決め、海軍は上海の闇市場で130キログラムの二酸化ウランを手に入れたという。 その一方、ドイツから二酸化フランを運ぶ計画もあった。1945年の始めに1200ポンド(約540キログラム)の二酸化ウランをU234潜水艦で運ぼうとしたが、5月1日にアメリカの軍艦に拿捕され、乗っていた日本軍の史観は自殺、ウラン化合物はオーク・リッジへ運ばれたとされている。 日本の支配層は戦後も核兵器の開発を諦めていない。例えば、岸信介は1957年5月に参議院で「たとえ核兵器と名がつくものであっても持ち得るということを憲法解釈」として持っていると答弁、1959年3月には参議院予算委員会で「防衛用小型核兵器」は合憲だと主張している。 NHKが2010年10月に放送した「“核”を求めた日本」によると、佐藤栄作首相は1965年に訪米した際、リンドン・ジョンソン米大統領に対し、「個人的には中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきだと考える」と伝えている。1967年には「動力炉・核燃料開発事業団(動燃)」を設立した。(「“核”を求めた日本」NHK、2010年10月3日) NHKの番組によると、この時代、日本政府は西ドイツ政府に秘密協議を申し入れ、1969年2月に実現した。日本側から外務省の国際資料部長だった鈴木孝、分析課長だった岡崎久彦、そして調査課長だった村田良平が出席した。日独両国はアメリカから自立し、核武装によって超大国への道を歩もうと日本側は主張したのだという。 ジャーナリストのシーモア・ハーシュによると、リチャード・ニクソン政権で大統領補佐官を務めたヘンリー・キッシンジャーは日本の核武装に前向きだった。彼はスタッフに対し、日本もイスラエルと同じように核武装をすべきだと語っていたという。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” Random House, 1991) 自衛隊も核武装の研究をしていた。1969年から71年にかけて海上自衛隊幕僚長を務めた内田一臣は、「個人的に」としているが、核兵器の研究をしていたことを告白しているのだ。実際のところ、個人の意思を超えた動きも自衛隊の内部にあったとされている。(毎日新聞、1994年8月2日) 原爆の製造に必要なプルトニウムを製造することになっていた東海発電所の原発はGCR(黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉)で、原爆用のプルトニウムを生産するには適していると言われている。アメリカやソ連はこの型の原子炉でプルトニウムを生産、原爆を製造している。 兵器クラスのプルトニウムを製造するために重水炉や高速炉も利用できるようだが、その高速炉の開発を目指していたのが動燃だ。「もんじゅ」と「常陽」が核兵器製造システムに組み込まれていると疑われても仕方がないと言える。ちなみに、常陽の燃料を供給していたのが臨界事故を起こしたJCOだった。 日本の動きをアメリカは警戒していると最初に指摘したのはジャーナリストで市民運動にも積極的に取り組んでいた山川暁夫。1978年6月に開かれた「科学技術振興対策特別委員会」で再処理工場の建設について発言、「核兵器への転化の可能性の問題が当然出てまいるわけであります」としている。実際、カーター政権は日本が核武装を目指していると疑い、日米間で緊迫した場面があったと言われている。 アメリカの情報機関の内部には日本が核兵器を開発していると信じている人が少なくないようだ。日本が核武装を目指していると信じられている一因はリサイクル機器試験施設(RETF)の建設を計画したことにある。 RETFとはプルトニウムを分離/抽出することを目的とする特殊再処理工場で、東海再処理工場に付属する形で作られることになった。常陽やもんじゅで生産した兵器級プルトニウムをRETFで再処理すれば、30発以上の核兵器を日本は製造できるということだ。 ジャーナリストのジョセフ・トレントによると、ロナルド・レーガン政権の内部には日本の核兵器開発を後押しする勢力が存在し、東京電力福島第1原子力発電所で炉心が用揺する事故が起こった2011年当時、日本は約70トンの核兵器級プルトニウムを蓄積していたという。(Joseph Trento, “United States Circumvented Laws To Help Japan Accumulate Tons of Plutonium”) アメリカで核兵器開発で中心的な役割を果たしてきた施設はオーク・リッジ国立研究所やハンフォード・サイト。オーク・リッジ国立研究所の目と鼻の先でCRBR(クリンチ・リバー増殖炉)計画が1972年に始められたのだが、1977年にジミー・カーターが大統領に就任しすると核政策の変更があり、基礎的な研究計画を除いて中止になる。 しかし、ロナルド・レーガン政権になった後の1981年に計画は復活したが、87年に議会はクリンチ・リバーへの予算を打ち切る。そこで高速増殖炉を推進していた勢力が目をつけたのが日本だ。クリンチ・リバー計画の技術を格安の値段で日本の電力会社へ売られることになる。 その結果、毎年何十人もの科学者たちが日本からクリンチ・リバー計画の関連施設を訪れ、ハンフォードとサバンナ・リバーの施設へ入っている。中でも日本人が最も欲しがった技術はサバンナ・リバーにある高性能プルトニウム分離装置に関するもので、RETFへ送られた。そうした流れの中、1995年12月に「もんじゅ」で起こったのが冷却剤の金属ナトリウムが漏れ出るという事故。高速炉が動かなくなったため、始められたのがプルサーマル計画だ。 2011年3月8日付のインディペンデント紙によると、都知事だった石原慎太郎が「日本は1年以内に核兵器を開発することができる」と語ったという。その3日後、東電の福島第1原発で炉心が溶融、環境中に大量の放射性物質を放出するという大事故が引き起こされた。 核兵器は弾頭だけでは役に立たない。運搬手段が必要だ。日本が開発していた「月探査機」のLUNAR-Aと探査機打ち上げに使われる予定だったのがM-Vがそれだと考える人もいた。月を周回する軌道に入った段階で母船から観測器を搭載した2機のペネトレーターを発射、地中約2メートルの深さまで潜り込ませることになっていた。技術そのものは弾道ミサイルへ直接応用できる。こうした懸念が高まる中、2007年1月にLUNAR-Aの計画は中止になった。 福島第1原発が事故を起こした直後、日本側は外部の専門家が発電所へ近づくことをかたくなに拒否した。そこで、日本政府は核兵器に関する何らかの作業をしていたのではないかと疑う声が国外であがったが、そう疑われても仕方のない状況はあった。 日本の原子力はイスラエルとも関係がある。例えば、福島第1原発で警備を担当しはじめていたのはイスラエルのマグナBSPなる会社。セキュリティ・システムや原子炉を監視する立体映像カメラが原発内に設置していたとエルサレム・ポスト紙やハーレツ紙が伝えている。 イスラエルは世界有数の核兵器保有国である。1986年10月にサンデー・タイムズ紙が掲載したモルデカイ・バヌヌの内部告発によると、イスラエルが保有している核弾頭の数は150から200発。水素爆弾をすでに保有、中性子爆弾の製造も始めていたという。中性子爆弾は実戦で使う準備ができていたとしている。(使われている疑いもある。) イスラエルの軍情報機関ERD(対外関係局)に勤務、イツァク・シャミール首相の特別情報顧問を務めた経歴を持つアリ・ベンメナシェによると、1981年時点でイスラエルがサイロの中に保有していた原爆の数は300発以上で、水爆の実験にも成功していたという。(Seymour M. Hersh, "The Samson Option", Faber and Faber, 1991)カーター元米大統領はイスラエルが保有する核兵器の数を150発だとしている。(BBC, May 26, 2008) こうした核兵器の開発や製造はネゲブ砂漠にある原子力研究センターで行われている。1990年代の初めにこの施設で大規模な事故があったと噂されている。この施設は1990年から94年頃までの間、閉鎖されたのだが、公的な説明はアメリカ政府からの圧力だったとされている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.03.10 00:00:14
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