GRU副局長暗殺未遂の容疑者コルバがドバイで逮捕されたが、背後に英国情報機関
2月6日にモスクワでロシア軍参謀本部情報総局(GRU)のウラジーミル・アレクセーエフ第一副局長を銃撃したルボミール・コルバがアラブ首長国連邦のドバイで逮捕され、モスクワへ移送された。コルバは1960年にウクライナの西部地方で誕生した人物で、2025年12月下旬にウクライナ情報機関からテロ攻撃を命じられ、モスクワへ入っている。ロシアのパスポートを最近取得していたという。 コルバにはふたりの共犯者がいるとされている。ひとりはコルバの後方支援と資金援助を担当していたビクトル・バシンであり、もうひとりはアレクセーエフと同じアパートに住み、ターゲットを監視していたジナイダ・セレブリツカヤ。この女性は遅くとも2023年にはモスクワでの生活を始めたとされている。バシンは2月7日にモスクワで逮捕されたものの、セレブリツカヤはウクライナへ逃亡したとされている。 アレクセーエは銃弾は腹部に2発、足に1発命中しているが、胸部や頭部には当たらず、一命は取り留めたようだ。銃撃の際、GRU副局長が反撃して銃口を上へ向けられなかったと見られている。 ウォロディミル・ゼレンスキーらは暗殺未遂事件への関与を否定しているが、ウクライナ内務省に所属する国家親衛隊第1軍団「アゾフ」を率いるデニス・プロコペンコはアレクセーエを必ず殺すと宣言、自分たちが暗殺計画で何らかの役割を果たしたことを示唆した。暗殺計画を立てたのはSBU(ウクライナ保安庁)だった可能性が高いが、その背後にはイギリスの対外情報機関MI6がいるとも考えられている。 コルバが拘束されたアラブ首長国連邦ではロシア、アメリカ、ウクライナの3カ国による会談が開かれている。その会談へロシアから派遣された代表団の団長はGRUのイーゴリ・コスチュコフ局長。ウクライナやイギリスの情報機関がGRUの第一副局長を殺そうとした目的はここにあると見られている。 また、2月5日から6日にかけてOSCE(欧州安全保障協力機構)は事務総長のフェリドゥン・シニルリオグルと議長のイニャツィオ・カシス・スイス外相をモスクワへ派遣、ウクライナ戦争を終結させるための取り組み、公正かつ永続的な平和の実現に貢献するOSCEの潜在的な役割について議論されたと言われている。OSCEの交渉団はロシアのセルゲイ・ラブロフ外相と会談した。暗殺未遂はこの会談にタイミングを合わせているとも言える。 ロシアに対するテロ攻撃の背後にアメリカがいることも間違いないだろう。ロシア政府に対して猫撫で声で話しかけるドナルド・トランプ米大統領を信用することはできない。西側世界に生きている人なら明白なことだが、当然、ロシアや中国も気づいているだろう。 アメリカとロシアの首脳がアンカレッジで会談した数週間後にトランプ大統領はジョー・バイデン大統領時代の「制裁」を密かに延長し、ロシアの大手石油会社に新たな制裁を課したとロシアのセルゲイ・ラブロフ外相は指摘、「裏切り行為」だと批判している。 ジョージ・W・ブッシュにしろ、バラク・オバマにしろ、ジョー・バイデンにしろ、そしてドナルド・トランプにしろ、ロシアを征服し、中国から略奪しようとしている。 本ブログでは繰り返し書いてきたことだが、この戦略は19世紀のイギリスで始まっている。その当時、イギリスの政界では反ロシアで有名なヘンリー・ジョン・テンプル(別名パーマストン子爵)が大きな影響力を持っていた。戦時大臣、外務大臣、内務大臣を歴任した後、1855年2月から58年2月まで、そして59年6月から65年10月まで彼は首相を務めている。ビクトリア女王に対し、アヘン戦争を指示したのもパーマストン卿だ。 1904年にハルフォード・マッキンダーはユーラシア大陸の周辺部分を海軍力で支配、内陸部を締め上げるという理論を発表、それをアメリカが継承した。封鎖帯の西端がイギリス、東端が日本だ。ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もマッキンダーの理論がベースになっている。冷戦もこの戦略の一幕にすぎない。 冷戦が熱戦に転化しかかっていた1982年6月7日、アメリカのロナルド・レーガン大統領はローマ教皇庁の図書館で教皇ヨハネ・パウロ2世(ポーランド人のカロル・ユゼフ・ボイティワ)とふたりきりで50分にわたって会談している。同じ時、別の場所でアレキサンダー・ヘイグ国務長官とウィリアム・クラーク国家安全保障補佐官が教皇庁の要人と会っていた。 会談のテーマはイスラエルのレバノン侵攻だとされたが、ジャーナリストのカール・バーンスタインによると、レーガンと教皇がその問題を話し合ったのは数分にすぎず、大半はソ連の東ヨーロッパ支配の問題に費やされ、ソ連を早急に解体するための秘密工作を実行することで合意したという。(Carl Bernstein, “The Holy Alliance,” TIME, Feb. 24, 1992) ヨハネ・パウロ2世の前任者、ヨハネ・パウロ1世は若い頃から社会的な弱者に目を向けていた人物で、1978年8月に教皇となったのだが、翌月に急死してしまう。その当時から他殺説が噂され、それは今でも消えていない。 当時、イタリアでは金融界を揺さぶる事件が発覚していた。アンブロシアーノ銀行による数十億リラの不正送金が明らかになったのだが、この事件にはバチカン銀行(IOR/宗教活動協会)が深く関係していた。ヨハネ・パウロ1世が生きていれば、この問題を徹底的に調べた可能性が高い。 当時、バチカン銀行の頭取だったのはシカゴ出身のポール・マルチンクス。この人物が頭取を務めたのは1971年から89年にかけてだが、その間にさまざまな不正を働いていた。1974年からバチカン銀行の経済顧問はアンブロシアーノ銀行のロベルト・カルビが務めていた。(Richard Hammers, “The Vatican Connection,” Holt, Rinehart & Winston, 1982) マルチンクスはパウロ6世の側近だったが、この教皇はジョバンニ・バティスタ・モンティニ時代からヒュー・アングルトンとジェームズ・アングルトンの親子と緊密な関係にあったことが知られている。つまりアメリカの情報機関OSS/CIAの影響下にあったのだ。マルチンクスも同じである。ヒューは第2次世界大戦の前からイタリアに住み、ファシストとの間に太いパイプを持ち、1930年代にはアレン・ダレスと知り合っている。 モンティニにはヒュー・モンゴメリーという同性愛の愛人がいて、枢軸国側の収容所から脱出に成功した連合軍の兵士を逃がす手助けをしていた。イギリスは秘密裏にローマで逃走ルートを作り上げるが、その組織を統括していたサム・デリーに協力していたのだ。大戦が終わるとモンティニはナチスの大物にバチカン市国のパスポートを提供し、逃走を助けはじめた。この逃走ルートを動かす上でインテルマリウムのクルノスラフ・ドラガノビッチ神父も重要な役割を果たしている。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000) さて、カルビ頭取は裁判の最中、1982年6月10日にローマのアパートから姿を消し、6月18日にロンドンの金融街の近くにあるブラックフライヤーズ橋の下で首吊り死体となって発見された。生前、彼はアンブロシアーノ銀行経由で流れた不正融資がポーランドの反体制労組「連帯」へ流れていると家族や友人に話していた。この労働組合は1980年9月にグダニスクのレーニン造船所でレフ・ワレサたちによって設立されている。(Larry Gurwin, “The Calvi Affair,” Pan Books, 1983 / David Yallop,”In God's Name,” Corgi, 1985) こうした米英金融資本を中心とする支配システムは全世界に張り巡らされ、日本もその中に組み込まれている。このシステムを「ディープ・ステイツ」と呼ぶ人もいるようだ。このシステムがロシアや中国に対して戦争を仕掛け、反撃されて窮地に陥り、テロ攻撃に走っている。アレクセーエフ暗殺未遂もそうしたテロ攻撃のひとつにほかならない。***********************************************【Sakurai’s Substack】【櫻井ジャーナル(note)】