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伊豆諸島南部・青ケ島の南南東約65キロにある明神礁付近の海面に変色があることが海上保安庁の観測で確認された。そこは唯一の海底活火山危険区域である。 明神礁は1952~53年に大噴火したが、海水の変色は88年3月を最後に、確認されていない。 1952(昭和27)年9月17日、明神礁誕生「北緯31度56分8秒・東経139分59秒5分」 その日の正午に第十一明神丸及び僚船の第五松生丸 (95t) が目撃したところによれば、「爆発は盛んで、煙は海底二、三カ所から五百メートルの高さに上り、ベヨネーズ岩礁西側海面一帯に軽石が浮き、ベヨネーズ西南西には幅一マイル〔海里。以下同じ。約1.9km〕、長さ三十マイル〔約55.6km〕にわたって硫黄が流れ、海を怪し気な色に染め出し、新しい小島がぽっかり二つ頭を現わしている」、という状況だった。 この報告を受けた海上保安庁は、すぐにこの旨を告示し、この地点近くを航行する船舶に注意をうながすとともに、状況の確認のため、巡視船「しきね」を現地に派遣した。「しきね」は17日14時30分に浦賀港を出航し、18日6時55分に現地に到着した。この時、すでにこの海底火山は、北緯31度56分7秒・東経140度0分5秒の地点に東西100m・南北150m・高さ30mの新島を形成し、なおも間断なく噴火を繰り返していた。 18日午後、この新島を、第一発見者である第十一明神丸の名前を取って「明神礁」と命名した。 24日12時20分ごろ、海上保安庁水路部測量船第五海洋丸は明神礁付近において作業中、海底火山の爆発を右舷斜下方向から受け、上部構造物の右舷側はほとんど破壊飛散し船体は直ちに転覆沈没した。船長以下22人の乗組員と、9人の調査団員は全員殉職したものと断定された。 23日10時15分に第五海洋丸が出航した時点では、明神礁の噴火はひと段落して静かになり、新島は水上にはっきり見えることになっていた。だが実際には、先に見たように、噴火は再び激しくなり、そして新島は水面下にその姿を消してしまっていた。第五海洋丸は水面下の明神礁に近づきすぎて、噴火に巻き込まれてしまったらしいという結論に至った。 24日昼の噴火については、明神礁の噴煙の西1海里の地点に、このときだけ他の噴煙が見えた、という証言が青ヶ島から寄せられている。明神礁とベヨネース列岩との中間地点に高根礁があった。 第五海洋丸は明神礁に接近しすぎたのではなく、明神礁からは慎重に距離を取っていたが、未知の海底火山高根礁の噴火に巻き込まれてしまったのではないか。 第五海洋丸の遭難以後、明神礁は「海底活火山危険区域」に指定され、噴火の危険のために近づくことができず、長らく測量もできない状況であった。 1953(昭和28)年の1月29日から2月2日にかけ、東京水産大学の調査船「海鷹(かいよう)丸」 (755t) による第2回学術調査が行われた。2月1日に調査された明神礁は、高さ93mに達しており、今後も残って航海目標になるかと期待された。だが、その期待も空しく、3月11日頃に再び消滅。と思った途端、4月5日頃に三代目の島が出現した。あわただしく出没を繰り返す明神礁であったが、最後は大爆発を繰り返したあげく、9月3日頃に消滅し、ここで火山活動は一旦終結する。 その後も明神礁は、時たま思い出したように海中で火山活動を起していたが、1970年4月23日に大爆発を起したのを最後に、今日に至るまで30年以上の間沈黙し続けている。 現在までのところ、高根礁が実際に活動しているのかどうかは確かめられていない。
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最終更新日
2017年03月26日 20時37分38秒
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