|
カテゴリ:カテゴリ未分類
久しぶりに書いたので、もうひとつぐらい書いておこうと思います。
「引き寄せ」について思うことを。 喩えとしておかしいかもしれませんが、塾では「さわり」だけでもウケましたので。 あなたは唐揚を食べたいと思いました。 どうします? 冷蔵庫を見て、材料があれば、そのままつくる。 なければ買いに行く。 あるいは、惣菜としての唐揚を買いに行く。 または弁当の唐揚を買いに行く。 ケンタに行く。(笑) もしくは食堂へ行く。 こんなところでしょうか。 実はこれらすべて「願望実現」であると。 でも「引き寄せ」とは言いませんね。 「引き寄せ」と言うときは たまたま夕食が唐揚だった。 誰かが唐揚を持ってきた。 誘われて出かけたら、そこはケンタだった・・・ こうなると「引き寄せ」って言うかな。 あたしの場合、住まいの目の前がコンビニですし。 唐揚を食べたいという願望を実現するのに、阻害要因はほとんどありません。 しかし、食糧事情の悪い国、もしくは広大な土地の一軒家とかだとどうでしょう。 充分願望実現になりますよね。 話を戻すと、願望に対して、それが実現したプロセスで「引き寄せ」になるのではなく どうやって実現しようが、それが実現した(手に入った)のであれば「引き寄せ」だろうと。 >すべての原因は自分にある と昨日書きました。 唐揚食いたいという願望に対して、どういう選択肢があって、どれを選択したか・・・ あるいは何も選択しなかったが実現はした、とかいろいろプロセス・結果はあれど 望んだから実現したということは間違いないわけです。 唐揚を食べたいと思ったが、忙しくて忘れていた。結果、食べられなかった・・・ この場合、そもそも「唐揚を食べたい」ということは望みだったのか?とも言えるかと。 あたしたちは・・・少なくともあたしは・・・ 唐揚を食べたいと思って なぜかバーガーショップへ行き、バーガーを食べる。 そして思う。「ほんとうは唐揚を食べたかったのだが・・・なぜバーガーなのだ」と。 かなりくだらないロジックになってしまったけど・・・ 願望が実現しないってのは、この程度のことなのかもしれません。 人間とは、ことほどさように愚かで傲慢なのかも。(苦笑) 相対性をやってみれば、例えば 「探す」と言う言葉を使ってしまうと「今、手にしていない(ここにない)」ことを宣言してしまっているとか、いろんなことがわかってきます。 思考の中に、このようなトラップが多数あるのではないかと思うのです。 そして、本人が気づかないうちに、相当変なことを思い込んでいる可能性が高いと。 願望が実現しない、「引き寄せ」が起こらないのも すべての原因は自分にある と思います。 こんなあたしでも、「引き寄せ」はたくさん経験しているし、願望も実現しっぱなしなんで。 実現しない願望は、自分に原因がある。すなわち何を望んで、選択したか、です。 再設定、再選択した上で、再度創造してみるほかありません。 わかったようなことを書きましたが、ほんとうに知っていれば、できるはず。 自分の傲慢性というか、愚かさ、無知にただただ呆れ 絶望しつつ降参している というのが、ここんとこの状況です。 あまりに今までと違う精神世界なので、混乱もしています。 誰から学んだわけでなく、どこかの知識でもなく(過去に接した考えかたであっても) どこまでも主観としてそう思うと。 そうなると、ますます諦め、降参するほかなくなるのです。 また意味不明ですが、今月はこんなところで。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|
|