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氣エネルギーの可能性
というブログを拝読して思ったこと。 昨日の日記で、久しぶりに氣で遊び始めたことを少し書きました。 本日で3日目ですが、熱っぽい状態にも慣れてきました。 氣エネルギーの可能性 すなわち、「良い」「悪い」は単なる価値判断で、真実は単に変化しているに過ぎないという指摘は、たしかにそうだなと感じます。 熱っぽくなるということは伝導性に難があって、溢れるまでには至りきれておらず、その伝導性を低下させているのがエゴ・・・すなわち価値判断などであるという自分の直観というか仮説と一致するよう内容を目にしたことに、自らのメッセージ性を感じます。 また、現実に「価値判断」が散見される自身の現状でもあり、これらを手放すことで、さらに快適な状態になるという確信もまた愉快であります。 階層的組織社会であるリーマン生活は、人間関係において上下・左右、さまざな力関係や利害関係があり、評価というものもついてまわります。 価値判断そのものが仕事だったりするという側面もあります。 価値判断そのものがゲームプレイのようなものであれば、単なる遊びになる。 そのような感覚が自らの内から出てきました。 価値判断から逃げられなければ、それを否定するのではなく、それで遊ぼう、楽しもうと。 誰かを評価しなければならないのであれば、単にゲーム内のキャラクターの属性や能力を把握するのと同じ程度で眺めることができればと思います。 単にそれだけのことであって、それ以上でも以下でもなく、ましてやその評価がその人そのものではない。というような気楽な見方ができれば楽だなと。 自分の価値判断に振り回されるというのも滑稽な話。 価値判断は過去のデータによるもので、実に制限された内容でそれをやってる限り、可能性も同時に制限されると感じます。 無限で無尽蔵なものと繋がるほうがいいなと。 しばらくは温泉状態でしょうが、溢れ出すまでは、パンパンで過ごしてみようと思います。 結局、上手く書けませんでしたが、心境はかなり変化しております。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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