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カテゴリ:浮説 徳川御用金、伊賀の蜜謀
浮説 伊賀の蜜謀 消えた徳川御用金 1 伊賀忍鴉(しのびがらす) 伊賀忍者の衆の江戸の頭目、四谷伊賀屋敷の黒破多呂兵衛のもとに、京の密偵からの投げ文があった。 ~徳川慶喜公、大政奉還なさる~ 密書にはこう書かれていた。うむぅぅと、黒破多呂兵衛は唸った。 「ついにきたか、激変の時こそ我ら伊賀衆の出番じゃ、この時を待っていたのじゃ、左玄太、子の刻四谷修練場へ、伊賀忍鴉組(忍びからす)集合だ、伝令たのんぞ、」 黒破多呂兵衛は下忍の左玄太に命じた。江戸の町に散ってる伊賀忍鴉組への集合をかけたのだ。 伊賀忍者の衆の江戸の頭目である黒破多呂兵衛は、京大阪の、長州、薩摩、京都守護職の会津藩、新選組、公家、江戸では老中小笠原長行、水野忠誠、勝海舟や勘定奉行の小栗 忠順の屋敷にも密偵を潜り込ませて幕府の情勢を探っていた。 黒破多呂兵衛は密偵から集めた細切れの情報を繋ぎ合わせ綿密な謀略を練っていた。 ~いよいよ、徳川も終わりの時を迎えたか、伊賀の衆がどう生き残るのか、ここが思案のしどころだな~ 江戸にいる伊賀の衆が活躍したのは、徳川家康公が伊賀忍者の服部半蔵を徳川家の隠密頭の地位につけたのが始まりだが、8代将軍徳川吉宗が紀州から連れてきたお庭番が幕府の隠密を務めると、伊賀の者は御広敷番(大奥警備)などを主とした軽役に追いやられ、30俵二人扶持の雑兵に甘んじていた。 だが、伊賀忍びの者の末裔たちの中には、伊賀忍者としての矜恃を捨てきれず、密かに忍鴉組という部隊をつくり、いざ鎌倉に備え、伊賀忍者としての、誇りと技を引き継いでいるものがいたのだ。 伊賀地方は家康の時代以来、藤堂家が治めていて、初代藩主の藤堂高虎は誇り高い伊賀の郷士の忍びの衆に「無足人」という地位を与えた。 扶持米(報酬)のない無給だが、武士階級としての面目を保させ、忍者の訓練を奨励し武芸に励まさせた。普段は農業にいそしみ、山廻り役、薮廻役などを努め、事あるときには藩の命を受け忍びとしての仕事をしたのだった。 藤堂高虎は伊賀の忍者をうまく手中に収め統率し、国境の守りとして活用したほか、諸国の情報を入手し、徳川幕府に報告していた。 無足人が無給とは表のことで、隠密な仕事に応じて過分な扶持米や報酬が伊賀の衆には支給されていた。 だが、平和な徳川の時代が250年以上も続くと伊賀忍者を使う必要もなくなり持て余すようになっていた。 忍びの衆は伊賀の里の田畑を耕すことの毎日を費やしていたのだ。伊賀の衆の者の中にも、忍者としての仕事ははもう時代遅れだと悟り、忍者組織から毀れ落ちる者も多くいた。 百姓に身を費やす者、伊賀を捨て、京大阪で商いをする者、中には忍びの術を使って盗賊に身を落とす者さえいた。 幕末の今に残っている伊賀の忍びを引き継ぐ者は僅かであり、江戸では、伊賀忍者の衆の江戸の頭目、黒破多呂兵衛の下、伊賀忍鴉組という忍者集団だけが、四谷の伊賀屋敷で、密かに忍者の修行を行い、伊賀忍法を継続していたのだった。 つづく 朽木一空 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年12月11日 10時30分05秒
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