貸し便お菊のおまけでございます、、、 ~笑左衛門~
貸し便お菊のおまけのウンチクでございます。 ~笑左衛門~ ~ 店中の 尻で大家は 餅をつき~ 店(たな)というのは長屋のことで、その長屋には共同便所でございまして、雪隠(せっちん)とか、惣後架(そうこうか)とか厠(かわや)と呼ばれておりました。 江戸の町民はいいものを食べておりますので、出す方のものも肥料として効き目があり、江戸町奉行が下肥の値段を釣り上げてはいかんという通達を何回も出したほど人気がありまして、近在の百姓間で糞の奪い合いになったほででござんすよ。 大便と、小便に分かれていたのは、大の方は肥やしになるが、小の方は肥やしにならないからだそうである。 ~この長屋は35尻でござんすね~ 大人の尻一人前で幾ら、子供の尻一人前で幾ら、 百姓が下肥を買いに来た時に、長屋の人数を尻の数で数えたので、それから、長屋の人数は尻で数えるようになったのでございますよ。 年の暮れになると、来年の糞の前金を納め、農家が大家と契約いたします。その相場が大人の尻ひとつで米一斗、餅にしたら10日分になります。それが、大家の懐に入るのですが、そこは大家といえば親も同然、 その肥やし代で年の暮れの餅を搗き、店子に配ったというのが上の句です。 ~家主に土産 帰って くそをたれ~ 大家はくみ取り料がいい稼ぎになるわけですから。店子たちには、なるべく他所で糞をしないで、長屋の厠で糞を垂れてもらいたいのだが、 評判の悪い大家には、~うちの長屋で糞してやらねーぞ~なんて嫌みの冗談も言われることも、あったそうで、、 ~跳ねる糞 受け身どっこい居合腰(いあいごし~ 江戸珍臭奇談でお馴染みの『でく』は、この雪隠の汲み取り人でございまして、長屋からくみ取った下肥は平田船に乗せます。平田船の船頭は、下肥人が集めてきた、下肥を船の樽に移し、葛西の百姓まで運び、帰りの舟には葛西の菜疏(野菜)を積んできた、一石二鳥の糞船だったのでございますよ。 つまり,江戸も後期になると、百姓が直接長屋に来て、糞をくみ取ることはなく、専門業者ができ、分業が始まったのでございます。 野菜栽培の第一の勤めは糞を集めること、糞がなくては野菜は育たず、~集めた糞一桶に水三桶注ぎ、三日置き、これを混ぜたものを畑に注ぐべし~と、百姓は伝えられていたそうだ。 ~糞こそ命わが命~、糞がなけりゃ野菜はできない。 でも、大丈夫、人間糞製造機でございますから、、 てへへ、、 笑左衛門