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カテゴリ:江戸ぶら、ぼてふり、
ぶらり甲州道 布田五宿 3 甲州道は内藤新宿から布田宿までは起伏もなく 平らで、ほぼまっすぐな道でなので、歩きやすい街道であった。 布田五宿(国領・下布田・上布田・下石原・上石原)の布田天神の門前で 福右衛門と彦五郎は馬を降り馬曳きの半吉と別れた。 「彦五郎、この布田天神社はな、布田五宿の総鎮守であり、 五宿天神とも呼ばれてるのじゃ、どれ、菅原道真公を祀ってあるのじゃ、 拝んでいこうかの。」 「へいっ、あっしは学問とは縁遠いものですからご容赦願いたいのですがね、」 布田天神社の参道から境内は人影はまばらだった。 ~かごめかごめかごの中の鳥は~ 甲高い声で子供らが、境内で歌っている声が欅の大木の下で響いていた。 布田五宿の町並みの距離はほぼ一里で、旅籠も9軒しかなく、 五宿で宿の業務を交代で行う合宿という方法で布田宿を差配していた。 布田宿を過ぎ、さらに甲州道を下ると下石原に出る。 「彦五郎、ここがあの近藤勇の生家のある場所だ。 近藤勇は百姓宮川久次郎の三男であったが、 江戸牛込の天然理心流剣術道場、試衛場に入門し、その才を見込まれ、 子供のいなかった周助の養子となったのだよ。 近藤周助の道場「試衛館」は江戸牛込甲良屋敷にあったので、 近藤勇が近藤周助に代わって多摩郡の出稽古場を廻り、日野宿の佐藤彦五郎 らと出会ったのだ。」 下石原にある近藤勇の生家宮川家は富農で、 屋敷の広さは2000坪を超える広さで、主屋の他にも蔵屋敷や文庫蔵、納屋などがあり、庭内には築山が築かれ、屋敷の周りにはケヤキやカシなどが植えられ、裏手には竹林があるという豪華なお屋敷だったのだ。 宮川久次郎は、天然理心流の近藤周助を招いて屋敷内の納屋を剣術道場とし、 近藤勇が周助の養子となった後は、勇が宮川家の道場に出稽古に来て、 近在の調布、三鷹あたりから多くの者が武術の稽古に通ってきていた。 「なあ、彦五郎よ、人生どこでどう転ぶかわからぬものよなあ、、 百姓の子がやがて御目見得以上の格の三百俵の旗本になったのだぞ、 彦五郎も埒もないことばかりしていないで見習うとよいな、」 「左様でござりまするね、ご隠居もだいぶ足が疲れてきましたので、 蘊蓄(うんちく)に気を取られて、そこら辺の石ころに躓いて ころばぬようにお気を付けくださいませ」 彦五郎、背中の荷がだいぶ重たく感じられてきていたのか、 嫌味の一つも言いたくなっていたのである。 朽木一空 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年03月10日 10時30分08秒
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