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安部公房は、1993年1月22日に亡くなっている。
2007年になって、しかも1月の22日前後から安部公房の作品をあらためて読み始めたことに、何か因縁があるかも知れないとも思う。また、亡くなった病院が、わたしも通うことのあった多摩の永山にある病院であったことを、後で知って驚いた記憶がある。 安部公房のエッセイの中に、調布に居を定めてから、夜ドライブをするのが気晴らしで、ふたつのドライブルートを挙げているが、その中のひとつが、鎌倉街道から鶴川へと向かう道筋で、鶴川へは行かず、途中の井の花という交差点を左に曲がって坂を登って鶴川街道に行くというルートである。わたしは、この井の花の交差点のところに住んでいた。この交差点は、鎌倉時代には源頼朝も馬で戰のために通ったところ。こうして全集を読みながら、安部公房に近い、色々なことを思い出す。 わたしが二十代のはじめのころ、1973年か1974年、安部公房が安部スタジオを立ち上げて、演劇を始めた頃になると思うが、これも後で気がついたのであるが、安部公房と言葉を交わしたことがある。当時新宿紀伊国屋の7階に三田文学の編集部があり、その直ぐ隣が紀伊国屋ホールの楽屋の出入り口であった。編集部の扉が閉まっているので、所在無くそこに立って待っていると、右の方、楽屋の出入り口の方から、ひとりの男のひとが通りかかって、扉をみて立ち止まり、ああ、ここが三田文学ですかというものだから、ええ、そうですと答えて,何故中に入ることが今できないかの説明をした。安部公房は別に編集部に用のあったわけもないので、ドアが閉まっている理由など説明しても意味の無い事で有るから,随分とんちんかんな答えをしたものだ。後になってから、それが安部公房だと思い到った。小柄で、静かな、穏やかなひとであったという印象が残っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年01月26日 19時32分21秒
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