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安部公房5:安部公房の詩を読む1
前回までに読み解いた18歳から20歳にかけての、安部公房のいわば詩と詩人に関する理論篇をもとにして、作品を読もうと考えた。しかし、これがなかなかむつかしいことだった。もし理論篇の実践版として、詩作品を読んだとして、この詩のここは、理論篇のこのことをいっているのだと、そう読みそう書いたとして、それが一体なんであろうかと、そう思ったのである。それでは、理論篇の3つのエッセイを読めばよいことで、しかし、それでは、他方、安部公房の詩を読んだことにはならないだろう。詩とは何か、なぜ安部公房は詩を書いたのだろうか、詩を書くという行為は何であり、それはどのようなことなのだろうか、また今度は詩を読むとはどういうことなのだろうか。これらのことを考えずに、安部公房の詩を論ずることはできないと考えた。また、さらに、詩を論ずると書いたが、詩を論ずるとは一体何事だろうか。これもよく解らないのである。詩を論ずるとは、詩を読むことが前提になるので、まづ詩を読むとはどういうことなのかについての解答が必要だろう。また、さらに、詩を読むためには、詩作品がなければならないから、詩を書くとはどういうことで、詩を書くひとはどのような人かを考えなければ、ならないだろう。 この最後のところの問いについては、安部公房の詩と詩人に関する理論篇で、すでに読んだところである。こうしてみると、読んだとは、理解したということだということがわかる。 こう考えてくると、安部公房の詩を読むために、安部公房自身による理論篇を用いることをすればよいということが考えられる。さて、このとき、詩を読んで(理解をして)、何をわたしは書けばよいのだろうか。 ふたつの考え方があると思う。ひとつは、安部公房の人生の総体を考えて、その詩が一体安部公房という人と、その人の人生にとって、またその後の諸作品にとって、どのような価値があるかを考える立場。もうひとつは、詩を独立した作品として、それを詩のみとして、その価値を考える立場。どうだろうか。後者の場合は、その理論篇が、どれほどよく作品に形象化されているか、形式と実質、音韻(リズム)と意味が調和して、よく書かれているかを読むことになるだろう。これは分析だろうか。詩を分析して、頭で理解をしても、詩を理解したことにはならないのではなだろうか。それとも理解という言葉から言って、理詰めで知ったら、それを理解というのだろうか。それだけでは、わたしには何かが足りないように思われる。やはり、詩の読者としては、わたしがなぜ安部公房の詩に惹かれるのだろうとか、なぜ安部公房の詩を読むのだろうとか、そういったことについて明らかに、わたしが知られるということでなければ、やはり、わたしが安部公房の詩を論ずる意味は、ないのではないだろうか。このような読みかたを何というのであろうか。鑑賞というのだろうか。感想を書くというのだろうか。 ところで、わたしは安部公房の詩が好きなのだろうか。何かその詩に強く惹かれて、この筆を執っているのだろうか。そのように問うてみると、そうではないということがわかる。 わたしが、安部公房の詩を読む目的は、わたしの関心は散文家としての安部公房にあって、なぜこのようなエッセイ、このような小説、このような劇作をなす人が、18歳から25歳の間に詩という形式に惹かれて詩作し、ふたつの詩集、ひとつは没我の地平、もうひとつは無名詩集を編んだのかということを知りたいということにあるし、やはり、そのような安部公房という人間をよりよく、またもっとよく知りたいということにあるということが、こうして書いてみると、わかる。また、従って、このような詩作によって、安部公房は一体何が言いたいのか、言っているのか、それを知りたいということでもある。 没我の地平は、1946年、安部公房22歳のときの詩集、無名詩集はその翌年1947年作者23歳のときの詩集である。これらの間に前後して、詩集に収められなかった詩がある。この没我の地平という題名については、後で触れることがあると思うので、早速没我の地平から、最初の詩を以下に引用し、読んでみよう。 詩人 小さな庭よ ほのかなる日々の微笑よ お前を見つめ 生に窪みを抉るのは 此の私達 詩人の使命なのだ 巡り移(うつろ)ふ孤独から 尚ほもはるかな存在へと 外面(も)を内に置き換へるのも 亦私達 詩人の使命なのだ 見つめ給へ 此の様々な現象(あらわれ)を 何事もないさゝやきを 口から口を交わす時 それでも私達は其の中に 限り無い変容を為し遂げる 此の小さな言葉の窪みにも けれど大きな存在の空虚が ひそみあふれてゐはしないか まして二人が 共に語らふ詩人である時 静かな黄昏が身の内に 夢を包んで凝結し 限りない夜空の星が 二つの半球を埋めつくす 此の様に 外の面が内を築きあげ 移ふ生身で悲哀の壷に 歓喜の光を注ぎつゝ 久遠の生に旅立つ事が 吾等詩人の宿命(さだめ)ではないか この詩は、すでに「詩と詩人(意識と無意識)」を読解したところを、そのまま詩に書いたものだということがわかる。何も特別な注釈が必要なく、あるいは、この詩こそ、あの詩と詩人論の要約であり、エッセンスだということもできる、そのような性格の詩である。 それでも、少し思うところを述べてみよう。 小さな庭よという庭への呼びかけで始まっているのは、やはり意味のあることであって、なぜか安部公房の発想の型には、もともと始めにあるのではなく、2次的なものとして結果したものに対する執着がある。執着ということばが適当かどうかは、わからないが、そう今ここではいっておく。あるいは、そのようなものに対する憧れや、何かとても価値があると考える思考である。これは、すでに「問題下降に依る肯定の批判」では、遊歩場としてでてきたものである。庭がなぜそうかといえば、家があって、庭は、それに付属するものとして2次的なものとしてあるからだ。わたしはそのように思う。 そうして、そのような交流の場所を創造する詩人の行為は、生の窪みを言葉で抉ること、また外面を言葉で削っていって、内面、すなわち無意識または夜との界面を明確にすることで、なりたつ行為である。この行為が変容であるのは、これが、詩人と事物の世界内在(世界-内在と世界内-在との統合概念、統合用語)のありかたを、詩人自身の転身によって、または変容によって、事物もまた繰り返し変容せしめることで表現する、安部公房の言葉でいえば、第3の客観を現出せしめることだからである。 静かな黄昏が身の内に 夢を包んで凝結し 限りない夜空の星が と、詩人安部公房がうたうとき、すでに外は内にあり、内は外にある。 二つの半球とは、双眸、ふたつの目のことをいっている。この比喩は、あるいはリルケから来るのかもしれないが、安部公房が、よく使う言い回しである。半球といいたいのは、目というよりも、その空間的な形状から、外と内を想像できるからであろうと思う。 移ふ生身で悲哀の壷に 歓喜の光を注ぎつゝ とあるが、この壷という概念と用語も、安部公房の好みのもので、後年になっても、蛸壺の思想(1949年)と題してエッセイにしているほどである。この好みもやはり内外と人間の意識を論じる格好の素材であったからだろう。しかし、また、ここでは、むしろ1948年7月4日中田耕治宛書簡にいわれている「リルケが歌った涙の壷のような眼」を踏まえて言っているのだとわたしは考える。わたしはリルケの本歌を知らない。もしご存知の方がいたら、お教えいただければと思う。 そうして、このようにいい、そういう以外には、注釈のしようもないほど、「詩と詩人(意識と無意識)」でいわんとしていることを体現した詩である。 さて、この詩は、独立した詩としてみた場合に、その価値はどうなのだろうかと問うてみよう。少なくとも、わたしにとって価値があるのは、安部公房という若者が、詩とはこのようなものであり、詩人、すなわち典型的な人間とは、このような存在だと、その考えを明確にしてくれていることにあるだろう。わたしの「詩と詩人(意識と無意識)」の理解の正しかったことを証明してくれる作品としても、また、価値があると考えている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年02月18日 17時01分56秒
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