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献血ポスターのキャラの胸が強調されすぎて不快だ、問題について。
私は思うのです。「こういう人もいる」と。私のようなオタクにとって、あのポスターは何も問題点を感じない、既存キャラを献血ポスターに使っただけの、それこそドラえもんやサザエさんが出ているポスターと何ら変わりがない、そういうものだと思っていました。(実際、吉祥寺の駅前商店街にも貼ってありましたし) が、これを「はしたない!女性を性的なものとして描いていて不快だ」という人が実際にいた。それが全体の何人か、はわからない。そこは認めるべきなんです。 で、認めたうえでの対応で。あくまで「その人個人の意見」でしかない。法律に反していない以上、そう言う個人の意見をかならずくみ取らなければいけない、という理由はなくて。 また、これを表現の自由だと思うのと同時に、「ではあなたも公共の場に自分が嫌いな表現、それがグロであったり、スプラッター、サイコ表現、あるいは集合体恐怖を生み出す表現(ハスコラ)であっても許すだけの覚悟を持ちなさい」ということであり。閉鎖され、希望者のみ見ることができる愛知の「表現の不自由展」と違い、路上で誰でも見ることができる作品には、否応なく見てしまえる以上、必ず好悪個人の意見が分かれる。 これは自分の表現の自由を求める人が対価として相手の表現の自由も認める、認めないまでも存在を許容する条件の一つでもあります。 今回の件を「フェミニストの横暴」と、私は言いたくないんです。というのは映画「ドリーム」を見た影響もあるのでしょう。意識のない側にとってはなんでもない、それこそ簡単に乗り越えられる10センチほどの段差が、車椅子の人にとっては生活に大きく影響するように。気にもしていない側にとってその要求は不当なもの、わがままに感じることもある。だが、当事者にとってはとても大きな問題であったり。 わたしはだからあのポスターを取り外すことには賛同しませんが、「そういう意見の人もいる、彼女たちも真剣なのだ」ということは心にとどめておきたい。 留めたうえで「どのようにリアクションするか」はそれこそ等価値の個人の表現の自由になる、と思います。 *ただし、科学的、医療的、数値的、歴史的に明らかに間違った知識、嘘情報である場合は「誤解や偏見、差別を広げる表現である」という理由で規制できると思います。これが許されると「あの人(実在の人物名)は人を殺した」という根拠のない嘘情報も表現の自由に含まれてしまうため。他にも「ジャガイモの芽は油でいためて食べると美味しい(実際は毒があるのでダメ!)というレシピを配るのも、人体に危険がある、という意味で表現の自由にはならない。 間違った表現で実在する罪のない人を傷つけることは法律でも禁止されてますので。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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