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人の死を喜ぶ、ということについて。
私は、「亡くなった人を悪く言うもんじゃない」「死体に鞭打つのはみっともない」という感覚が嫌いです。それは「生前にその人間にされた悪行の被害を死という区切りで許せ」という圧力を感じるからです。 オタク評論家の宅八郎 がなくなったということで。個人的には「私のようなオタクに世間的イメージを作り上げた芸人」として、それを面白おかしく取り上げたとんねるずとならんで最悪の芸人だと思い、いまだに許してません。 忘れもしません。とんねるずの「生でダラダラいかせて」という番組内でオタクキャラを笑いにした。が、その笑いというのは「オタクでない側の笑い」であり、いわゆる学校でのスクールカーストの底辺の人間としてオタクをいじって笑うことを「面白いこと」としてあつかった番組でもあり。 当時は宮崎事件の記憶も生々しい時代。そんな中、クラスに必ず一定数いる漫画やアニメ好き(自分もそうでしたが)をバカにしてもよいキャラであるというアイコンになったことを覚えています。 当時はネットもなく、世の中の世論を形成するのはテレビが圧倒的な時代。そんな中に本来「クラスの片隅で迷惑もかけない」石の裏にこっそり隠れてオタク趣味を楽しんでいる虫みたいな我々を、無理やりほじくりかえして天日にさらし、水をかけて逃げ惑う姿を笑うということをされた、いや、その感覚は未だに世間に残っています。 宅八郎というキャラは本人は後に「バラエティー番組用のキャラだった」と言ってますが、その言い訳こそ当時迫害を受けた我々オタクにとって憤りをさらに燃え上がらせる。明らかなヘイトキャラ。そんな恨みは30年近くたった今でも忘れていません。 亡くなった今だからこそ言いたい。宅八郎。てめえが死んでも(あととんねるずやあの番組を作った連中)オタク文化発展の初期に大きく偏見と傷をつけた恨みは絶対忘れねえからな! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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