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テーマ:戦ふ日本刀(97)
カテゴリ:戦ふ日本刀
陣中初の相州刀 この蘭陵鎮は名にし負う『蘭陵酒』の名産地で、 日本でいえば灘か伊丹といったところ。 人口は二、三千人の小邑だが、割合に富有らしく、家々の構えも小立派である。 が、しかし兵火に焼け砲弾に崩れ、住民は一人残らず避難して影を見せない。 この地が前線基地で、◯◯部隊長は、幕僚と共にここまで前進して来て、 弾雨下に指揮をとっていたのである。 自分らは、前野部隊本部に落ちつく事となり、本部わきの一室をあてがわれたが、 到着後まず、兵器部から出張して来ている中村砲兵少佐に面会その指揮を受け、 さらに大澤副官の指図によって当分ここを本拠として修理に当たる事となった。 宛てがわれた一室に落ちついて荷物を整理し、 こうりやんの寝台にごろりと横になるかならぬに、 ここに仮泊している大塚部隊の部隊長以下の佩刀数振を携えた兵隊が来て、 夜半までに修理してほしいという。 到着したのが午後二時半頃で、ものの一時間もたたぬうちに、 どうして知れたのか一帯の将兵に、修理班が軍刀修理に来ている事が、 無電のごとく知れ渡ったのだ。 その日の会報に出たのでもなんでもない。 前線部隊のこうした要求のいかに切実なものなるかは、まったく想像以上である。 最前線の将兵の総ては、現実に戦う事それ以外の考えは絶無だといってよい。 喰うも飲むも眠るもそれはまったく必要外のものなのだ。 こうした最前線戦闘部隊の要求するものは、 もはや慰問でもなく、慰安でもなく、猫の手一つでも、 それが一分でも一寸でも戦果に貢献するものであればよいのだ。 土間にアンペラを敷いて、有り合わせた木を輪切りにしたような台を置き、 ただちに修理に着手した。 大塚部隊長の佩刀は、新刀相州綱廣二尺三、四寸のがっしりした業物で、 大体の感じは相州伝というよりむしろ美濃風に近いといったものであった。 これは五代綱廣で、新刀相州物としては、三代かこの五代が業物とされ、 『相州扇子谷住伊勢大掾源綱廣作花押〔かおう〕、裏銘、干時寛文八戊辰八月吉日』 と切ってあった。 中心飽くまで長く、地肌は板目に柾目交じり、刃文はのたれとも見える直刃で、 いかにも新刀綱廣十数人中の第一位といわれるに相応〔ふさわ〕しく、雄偉な形体であった。 鍔元のゆるみ、柄巻の故障で、刀身は明皎々〔めいきょうきょう/こうこう〕として 何事かを期待するもののごとくに見えた。 同隊の前田少尉の佩刀は『相州相模守宗正』と銘のある新刀で、 皆焼きに似た刀であったが、これは元禄頃武州下原に相模守宗國という刀工がいて、 のちに銘を宗正と改めたそれかも知れぬと考えられた。 武州下原と相州とは密接な関係にあったから、のちに相州で打ったのかも知れぬ。 この刀は、切先から五寸ほどのところがひどく曲がっていたほかに、柄頭に小故障があった。 前野部隊岩倉准尉の所持刀であったが、古刀相州物で、 本阿彌一家の施したらしい國泰の金象眼銘のあるものを見た。 これも刀身がくなくなに曲がり物打ちに刃こぼれが少々あった。 一人斬ったのだという。 相州物は一体に数が少ない。ここで図らずも上陸以来はじめて三振を手がけたのであるが、 鍛刀にあたってわかしの過ぎたためでもあるのか、 どうも相州伝の刀は柔らかで曲がりやすい。 これはその後の修理においてもしばしば痛感した事である。 その日は夜に入っても蝋燭の灯の下で作業をつづけ、 前記のほか大塚部隊外山中尉(無銘古刀ほか三振)、前野部隊大澤副官(源盛綱の銘)、 尾上大尉(忠廣)、その他で十数振の修理を施した。 この部隊の吉森という特務一等兵がいろいろと世話をしてくれた。 東京日日新聞社の社員である。さばけた物言いぶりで、来ては何かと話し込んで行った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016年10月31日 01時31分26秒
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