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テーマ:老荘思想(128)
カテゴリ:道家思想
Yellow mountain - China Photo by julienpons31 道家思想篇 88 老子 貴生第五十 「出〔い〕でて生き入〔い〕りて死す。 生〔せい〕の徒〔と〕、十〔じゅう〕に三〔さん〕有り。 死〔し〕の徒、十〔じゅう〕に三〔さん〕有り。 人の生〔せい〕、動いて死地に之〔ゆ〕くもの、十に三有り。 夫〔そ〕れ何故〔なにゆえ〕ぞや。 其の生〔せい〕を生〔せい〕とするの厚きを以てなり。 蓋〔けだ〕し聞く、善〔よ〕く生〔せい〕を攝〔せっ〕する者は、 陸行〔りくこう〕して兕虎〔じこ〕に遇〔あ〕わず、 軍〔ぐん〕に入〔い〕りて甲兵〔こうへい〕を被〔こうむ〕らず。 兕〔じ〕は其の角〔つの〕を投ずる所無く、 虎〔とら〕は其の爪を措〔お〕く所無く、 兵〔へい〕は其の刃〔やいば〕を容る所無し。 夫〔そ〕れ何故〔なにゆえ〕ぞや。 其の死地〔しち〕無きを以てなり。」 出生入死。 生之徒十有三。死之徒十有三。 人之生動之死地十有三。 夫何故。以其生生之厚。 蓋聞善攝生者、 陸行不遇兕虎、 入軍不被甲兵。 兕無所投其角、虎無所措其爪、兵無所容其刃。 夫何故。以其無死地。 (The value set on life) Men come forth and live; they enter (again) and die. Of every ten three are ministers of life (to themselves); and three are ministers of death. There are also three in every ten whose aim is to live, but whose movements tend to the land (or place) of death. And for what reason? Because of their excessive endeavours to perpetuate life. But I have heard that he who is skilful in managing the life entrusted to him for a time travels on the land without having to shun rhinoceros or tiger, and enters a host without having to avoid buff coat or sharp weapon. The rhinoceros finds no place in him into which to thrust its horn, nor the tiger a place in which to fix its claws, nor the weapon a place to admit its point. And for what reason? Because there is in him no place of death. ( Daoism -> Dao De Jing ) 「(万物は道より)出〔い〕で(この世に現われ)て生き、 (道に)帰入して(この世から消え去り)死ぬ。 (生とか死とか言うものは、道即ち本体から現象界に姿を表わすか、 現象界から本体に還るかということによって名づけられる差別に過ぎないものである。 従って、生はさほどに喜ぶべきことでもなく、死はさほど悲しむべきものでもない。) 世間には寿命の長い者が十人のうち三人いる。 寿命の短い者がまた十人のうち三人いる。 寿命長く生まれついているのに、下手に動き廻る結果、 自ら死地に赴いて短命に終る者が、また十人のうち三人いる。 それは一体何故であろうか。 余りにも生命を満ち足らせようとし過ぎて、享楽耽溺の生活を送ったり、 富貴・名声を追求するのにあくせくしたりするからである。 (さて残りの一人、十人の中の一人には、真の道を悟り、生死の意味を達観した人物がいる。) 聞く所によると、真に善く生を養う者は、 陸上を旅行する際には兕〔じ〕(※野牛の一種)や虎の害に出会うことなく、 敵国の軍隊の中に入って行っても甲兵の害を被ることがない。 兕〔じ〕はその角で突く余地がないし、虎はその爪をかける余地がない。 兵器もその刃を刺し込む余地がない、と。 それは一体何故であろうか。 (道を体し、死生一如を達観したこの人には)いわゆる死地というものがないからである。」 (新釈漢文体系 7 『老子 荘子 上』P.89 明治書院発行) 「生きのびる道と死にいく道がある。 十人のうち三人が生きのび、 十人のうち三人が死んでしまう。 さらに、十人のうち三人が生命に執着(しゅうじゃく)するが、 しかし、彼らもそれも失ってしまう。 何故かといえば、生命を豊かにしすぎるからである。 自分の生命を守るのにすぐれた者は、 虎(とら)や犀(さい)に出会うことがない。 戦場においても、危険な武器を身につけない。 犀も彼を突き刺すことはできないし、 虎も爪でひっかくことができない。 武器も彼を傷つけることはできない。 何故かといえば、彼に死という場所がないからである。 注釈 仏教のことばで、生命の実在に入る大死(たいし)を経験すると、 人には死という場所はない。 そして、大死や無そのものを経験するとき、生や死という相対的二分法を超えている。 西谷啓治(にしたにけいじ)はハイデッガーの「サンタクララのアブラハムについて」の 論文解釈でいう。 死ぬ前に死ぬ人は死ぬときに死なない。 西谷はさらに十七世紀の禅僧の至道無難(しどうぶなん)のことばを引用していう。 生きながら死者になれ。徹底的に死ね。そして、自分の心に従って好きなことをせよ。 そうすれば、あなたのすることは全て善である。 「生きながら死者になる」ということは善では悟りの状態であり、 老子の思想では「道」の心である。 人は大死を経験して悟りの心や「道」に達する。 生きる道をやめて、無の実在と同一になるのである。 『実存と有(う)』でハイデッガーはいう。 無へ投影をしながら、現存在は、全体として、あるものを超えている。 これを「超越(ちょうえつ)」と呼ぶ。 本質的に現存在が超越していなかったならば、つまり、無へ投影されていなかったならば、 それはものに関係せず、自己関係ももたない。 無が現存在の基礎にあらわれるから、ものの不思議さを見ることができる。 ものの不思議さがあらわれるときに、我々は驚く。 驚きや無の啓示(けいじ)ゆえに「なぜ?」ということばが発せられる。 この「なぜ?」ということが可能であるから、限られた方法で理由や証明を求める。 尋ね、証明したりするから、我々は人生の探求者になるように定められるのである。 このように、無への投影によって、人間は有の真実に目覚めるのである。 無への投影とは大死(たいし)の経験すなわち「道」の到達である。 それを経験すると、人はそれと同一になり、無私(むし)の境地に達する。 そして、生命や恐ろしい虎、犀、危険な武器などを求めない。 老子は「何故かといえば、彼に死場所がないからだ」という。 『老子翼(ろうしよく)』の Wang Tüan は注でいう。 完全な人間は死を知らないし、生も知らない。 だから、死をもたらすものはなく、生をつくるものもない。 彼は決して死なないと、我々はいう。 ・・・・・・「彼に死という場所がない」。何故なら、彼は生から自由であるからだ。 生から自由であると、人はいつも率直に生きており、ひとりで生きているのではない。 要するに、生と死という二分法がなくなると、人はいつも生きた状態にある。 どんな大きな危険でも彼を威嚇(いかく)することはできない。 (以下略)」 (張鍾元 著 上野浩道 訳『老子の思想』P.234~231 講談社学術文庫) (つづく) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2020年05月29日 20時04分21秒
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