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カテゴリ:遠き波音
老尼はしばらく涙に濡れた目で近江守を見上げていたが、再び懐から数珠を取り出すと低く経文を唱え始めた。
近江守も一緒になってしばらく手を合わせた。だが、やがて老尼から目を離し、眼前に広がっている琵琶湖の情景を眺めた。 初めてこの近江へやってきてこの辺りを通ったのも、今のようにもう夕暮れ刻だった。 だが、あの時と違って、空は鈍色に掻き曇り、澱んだような暗い雲が西の山の端に広がっている。西方浄土を思わせるような神々しい光も、御仏の導きを示すような波間の煌きも、今は何もない。 それは、吉祥の行く先を暗示しているように思えた。 吉祥、そなたは何を思いながら、この波間に沈んでいったのだろう。 あの天女のように美しく誇り高かった吉祥にとって、身を持ち崩して老いさらばえ、見る影もないほどに落魄れ果てた姿を晒すということが、どういう意味を持つものだったのか……それも、私、という人間の前に。 寒々しい風が、琵琶湖の湖面を吹き抜ける。それは未だこの世を彷徨う吉祥の魂であるような気がした。 言葉にならない唸り声を上げながら、風は近江守の耳元をなぶっていく。 近江守は吉祥の答えを聞こうと、耳を澄ませた。 だが、聞こえてきたのは、海鳴りにも似た、遠い波音の響きだけだった。 (了) *参考……「今昔物語集」巻第三十「中務大輔娘成近江郡司婢語第四」 ↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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