自分の目つきにとらわれた人の相談
4月号の生活の発見誌に、目上の人とか、知人と会って話したりする場合、どうしても目つきが悪くなって、顔があげられなくなるという人の話が載っていた。挨拶ぐらいはできるが、みんなと一緒に話し合って笑い興ずることができない。自分では、話の種はいくらもあっても、顔を上げようとすれば、硬くなって、見えるものすべてが不自然に強く目につき、傍にいる人など、気味が悪そうにされるので、苦しくてたまりません。これは電車で4人掛けの椅子に見知らぬ人と座り合わせたときに感じることです。特に他の3人が知り合いで、和気あいあいと会話をしている場合など居づらい雰囲気になります。目のやり場に困ります。眠ったふりをしたりスマホを見たりして、目を合わせないように注意しています。これに対して森田先生が的確なアドバイスをされている。「目が鋭くなる」とは、目がスラスラと動かないで、固定し見つめるために起こるので、自然の目が自由に動こうとするのをつい一定の所を、見てはならないと故意にけん制しようとするため、目がかたく動かなくなるためであります。これを治すには、この苦しいという感情は、けがや災難と同じで、防ぐことはできないものであると認識する必要がある。けがは痛く、恥ずかしいことは苦しく悩ましいのは当然のことである。すなわちそれは忘れたり、気を紛らせたりしても、どうすることもできない事である。最も正しいことは、従順におとなしく、逆らわずこれを忍受する事であります。そうすれば、感情の法則により、その苦悩は最も早く、薄紙をはがすように次第に消失するものです。これに反して、これに逆らおうとする時には、ますます執着になるものです。長上の人や知人と交話する時は、日本の礼法としては、その尊敬の度の強いほど、その人の膝の先、下腹・胸部というように、その近傍をぼんやり見ながら(その方向を見るともなしに目を向けながら)、先方が何かいう時、または自分の意見を確かめるとき、先方の顔を一寸瞬時、盗み見るのが法で、それがあたかも人情の自然であります。それをことさらに、見ないように、あるいは一定のところを見つめよう、人の目を見つめようという風に考えると、目が凄くなるのであります。また進んでは、自分が見てはいけないと思うところに注意や意識を無理やり向けていくことも有効です。それはかえって、自分の心の自然であるから、むしろそれに従うという心の態度であります。そうすれば、苦しい、恐ろしい、そのためにますます執着するような気持はするが、思い切って実行すれば、必ず早く治ります。「顔が上げられなくなる」そのままでよろしい。たって勇気を出して、顔を上げようとせず、オドオドして恥ずかしがっていればよいのです。以上申し上げる通り、その心持だけをただ実行しさせすれば必ず治ります。