★モノ作りについて★
創造性について 長くモノを作っている。そこには創造性だとか想像力とかが介在しているのだろうと思われがちだ。実際、そういう方も多いだろう。なんちゃってアーティストである「私の場合」を言葉に置き換えると、こんな感じ。たとえば、物質世界の辺縁に位置する防波堤へ出掛けていって、無意識の海へ釣り糸を垂らすようなもの。そこへは、物質世界に存在する私「どこの某」という人物に纏わりついている「欲」であるとか「業」や「しがらみ」などのフジツボ的付着物諸々を含めた「殻」を脱ぎ捨てて行く必要があり、ただの「意識」だけの存在になって釣り糸を垂らすことが必須であるように思われる。誰も連れて行けないし、その必要も無い。徹底的に孤独な世界。「孤独」というのは、言い換えれば「自由」ということ。無限大に自由で孤独な世界に「意識」だけがあり、そいつが、深度46億年のαでありωである無意識の海へと釣り糸を垂らす。この「釣り」はラジオのチューニングにも似ていて、周波数を合わせさえすれば(これがまた大変といえば大変なのだけれど)、その周波数に合わせたナニガシカが釣れることになっているように思う。防波堤に座って釣り上げたナニガシカは、現実世界に持ち帰っても透明で見えないから、この世の物質を用いて形にしていくしかない。釣り人の器も関係があり、アントニオ・ガウディーなどは超大物を釣ってしまったからヒトの一生では足りなかったくらいである。つまり「物質世界にいながら、非物質世界を往還すること=モノを作ること」そんな風に思っている。ただし、これはマトモな主婦や母親のやる事じゃない。現実世界での役割(フジツボ?)は、「釣行」の期間、ほぼカンペキに放置され忘れ去られるので、結果的にコドモに謝ってばかりいることになる。ごめんなさい。許して下さい。申し訳ない。の連呼。って、その割にたいしたモノは作ってないんですがね(^_^);今回の「釣行」は長かったので、ゲンジツ復帰にちょいと時間がかかりそう。という訳で、コドモへの罪滅ぼしにティラミスを作ったのでありました。