『職業としての小説家』6
<『職業としての小説家』6>
大学図書館で『職業としての小説家』をみっけ♪、市図書館の予約を解消し、借出したのであるが・・・
大学図書館は穴場やで♪
【職業としての小説家】
村上春樹著、スイッチ・パブリッシング 、2015年刊
<「BOOK」データベース>より
「MONKEY」大好評連載の“村上春樹私的講演録”に、大幅な書き下ろし150枚を加え、読書界待望の渾身の一冊、ついに発刊!
【目次】
第一回 小説家は寛容な人種なのか/第二回 小説家になった頃/第三回 文学賞について/第四回 オリジナリティーについて/第五回 さて、何を書けばいいのか?/第六回 時間を味方につけるー長編小説を書くこと/第七回 どこまでも個人的でフィジカルな営み/第八回 学校について/第九回 どんな人物を登場させようか?/第十回 誰のために書くのか?/第十一回 海外へ出て行く。新しいフロンティア/第十二回 物語があるところ・河合隼雄先生の思い出
<読む前の大使寸評>
大学図書館でみっけ、市図書館の予約を解消し、借出したのであるが・・・
大学図書館は穴場やで♪
<図書館予約:(10/27予約、11/27大学図書館でみっけ、借出し)>
rakuten職業としての小説家
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この本は読みどころ満載なんで、さらに(その6)として読み進めました。
作家志望の若い世代に、何を書けばいいのかと、村上さんが語りかけています。
・・・このあたりは、作家志望の大使にとっても参考になるのです(アホやで)
p129~131
<さて、何を書けばいいのか?>より
僕が小説を書き始めたのは35年も前のことですが、その当時はよく「こんなものは小説じゃない」「こんなものは文学とはいえない」と先行する世代から厳しい批判を受けました。そういう状況がなにかと重くて(というか、鬱陶しくて)、けっこう長く日本を離れて外国で暮らし、雑音のない静かな場所で好きなように小説を書いていました。
でもそのあいだも、自分が間違っているかもしれないとはまったく思いませんでしたし、不安みたいなものもとくに感じませんでした。「実際にこうとしか書けないんだもの、こう書くしかないじゃないか。それのどこがいけないんだ」と開き直っていました。今はたしかにまだ不完全かもしれないけど、そのうちにもっとちゃんとした、質の高い作品が書けるようになるだろう。またその頃になれば時代も変化を遂げているだろうし、僕のやってきたことは間違っていなかったと、しっかり証明されるはずだと信じていました。なんだか厚かましいようですが。
それが現実に証明されたのかどうか、今こうしてあたりをぐるりと見回してみても、僕自身にはまだよくわかりません。どうなんだろう?文学においては、何かが証明されるなんてことは永遠にないのかもしれない。でもそれはともかく、35年前も今も、自分がやっていることは基本的に間違っていないという信念は、ほとんど揺らいでいません。あと35年くらい経ったら、また新しい状況が生まれているかもしれませんが、その顛末を僕が見届けることは、年齢的にみてちょっとむずかしそうです。どなたか僕のかわりに見ておいてください。
ここで僕がいいたいのは、新しい世代には新しい世代固有の小説的マテリアルがあるし、そのマテリアルの形状や重さから逆算して、それを運ぶヴィークルの形状や機能が設定されていくのだということです。そしてそのマテリアルとヴィークルとの相関性から、その接面のあり方から、小説的リアリティーというものが生まれます。
どの時代にも、どの世代にも、それぞれの固有のリアリティーがあります。しかいsそれでも小説家にとって、物語に必用なマテリアルを丹念に収集し、蓄積するという作業がきわめて重要であるという事実は、おそらくいつの時代にあっても変わることはないと思います。
もしあなたが小説を書きたいと志しているなら、あたりを注意深く見回してください―というのが今回の僕の結論です。世界はつまらなそうに見えて、実に多くの魅力的な、謎めいた原石に満ちています。小説家というのはそれを見だす目を持ち合わせた人々のことです。そしてもうひとつ素晴らしいのは、それらが基本的に無料であるということです。あなたは正しい一対の目さえ具えていれば、それらの貴重な原石をどれでも選び放題、採り放題なのです。
こんな素晴らしい職業って、他にちょっとないと思いませんか?
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最後に「あとがき」を見てみましょう。
村上さんは、“思惟の私的プロセスのようなもの”と謙遜しているが、いや、ほんとうに参考になりました♪
p308~313
<あとがき>より
本書に収められた一連の原稿をいつ頃から書き始めたのか、はっきりとは覚えていないのだが、たぶん5,6年前のことだったと思う。自分が小説を書くことについて、こうして小説家として小説を書き続けている状況について、まとめて何かを語っておきたいという気持ちは前々からあり、仕事の合間に暇を見つけては、そういう文章を少しずつ断片的に、テーマ別に書きためていた。つまりこれらは出版社から依頼を受けて書いた文章ではなく、最初から自発的に、いわば自分自身のために書き始めた文章だということになる。
最初のいくつかの章は通常の文体で―たとえば今こうして書いているような文体で―書いていたのだけれど、書いたものを読み返してみると、文章の流れがいくぶん生硬っというか、とんがっているというか、もうひとつうまく気持ちに馴染まなかった。それで試しに、人々を前にして語りかけるような文体で書いてみると、わりにすらすらと素直に書ける(しゃべれる)感触があり、それならと、講演原稿を書くつもりで全体の文章を統一してみることにした。
小さなホールで、だいたい30人から40人くらいの人が僕の前に座っていると仮定し、その人たちにできるだけ親密な口調で語りかけるという設定で書き直したわけだ。しかし実際には、これらの講演原稿を人前で声に出して読む機会はなかった。
どうして講演をしなかったのか?まずだいいちに自分について、また自分が小説を書くという作業について、こんな風に正面から堂々と語ってしまうことがいささか気恥ずかしかったからだ。僕には、自分が書く小説についてあまり説明したくないという思いが、わりに強くある。自作について語ると、どうしても言い訳をしたり、自慢したり、自己弁護をしたりしてしまいがちになる。そうするつもりはまくても、結果的にそう「見えてしまう」ところがある。
まあ、いつかは世間に向けて語る機会もあるだろうが、まだ時期的に少々早すぎるかもしれない。もう少し年齢をかさねてからでいいだろう。そう思って、抽斗に放り込んだままにしておいた。そしてときどき引っ張り出しては、あちこち細かく書き直した。僕を取り巻く状況―個人的状況、社会的状況―も少しずつ変化していくし、それにあわせて僕の考え方や感じ方も変わっていく。
そういう意味では、最初に書いた原稿と、今ここにある原稿とでは、雰囲気やトーンがけっこう違ってきているかもしれない。でもそれはそれとして、僕の基本的な姿勢や考え方はほぼまったく変わらない。考えてみたら、僕はデビューした当時から、ほとんど同じことばかり繰り返し述べているような気がするくらいだ。30年以上前の自分の発言を読んで、「なんだ、今言っていることとまるで同じじゃないか」と自分でも驚いてしまう。
(中略)
本書は結果的に「自伝的エッセイ」という扱いを受けることになりそうだが、もともとそうなることを意識して書いたわけではない。僕としては、自分が小説家としてどのような道を、どのような思いをもってこれまで歩んできたかを、できるだけ具象的に、実際的に書き留めておきたいと思っただけだ。とはいえもちろん、小説を書き続けるということは、とりもなおさず自己を表現し続けることであるのだから、書くという作業について語り出せば、どうしても自己というものについて語らないわけにはいかない。
(中略)
最後にお断りしておきたいのだが、僕は純粋に頭だけを使ってものを考えることが得意ではない人間である。ロジカルな論考や、抽象的思考にはあまり向かない。文章を書くことによってしか、順序立ててものを考えられない。フィジカルに手を動かして文章を書き、それを何度も何度も読み返し、細かく書き改めることによってようやく、自分の頭の中にあることを人並みに整理し、把握していくことができる。そのようなわけで僕は歳月をかけて、本書に収められたこれらの文章を書きためることによって、またそれに何度も手を入れることによって、小説家である僕自身について、また自分が小説家であることについて、あらためて系統的に思考し、それなりに俯瞰することができたように思う。
そのような、ある意味で身勝手で個人的な文章《メッセージというよりもむしろ思惟の私的プロセスのようなものかもしれない》が、読者のみなさんのためにどれほどお役に立てるかは、僕自身にもよくわからない。わずかなりとも、何か現実のお役に立てればとても嬉しいのだが。
2015年6月 村上春樹
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