私は港町、横浜で生まれ育った。
港町だということが横浜に生まれた一つの誇りでもあった。
『散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする 』
私にとって、横浜はまさにそんな名残のある街だったのだ。平成時代の横浜と違い、昭和の横浜はまだ山手、外人墓地、マリンタワー、氷川丸、山下公園、中華街、異国情緒あふれる街、それが横浜だった。関内という駅の名前通り、関所の中、つまり昔は外国人居留地であった。今も西洋風の建物が立ち並び、それが港町ヨコハマらしさだった。
長崎出島はさらに歴史を遡り、1634年に出来た「関内」だ。
鎖国中、勇逸開かれた日本の窓口であり、今もその名残は街のあちこちに見る事が出来た。当時の日本人にとってはポルトガル人、オランダ人はきっと今でいう宇宙人のような存在だったのかもしれない。またそんな国にやって来た異人たちもきっと変わり者だったのだろう。
けれどそんな変わり者や偏屈者であっても、未開の国、ニッポンにやってくれば彼らは一変する。グラバー亭を小学校5年生以来訪れたが、高台に作られた豪邸から長崎の町や港が一望できる。
「いつもそうじゃない、外国から来た人たちが一番いい場所に住めるのって。」
そう母が目の前に浮かぶ三菱造船所を見ながら呟いていた。
私がこのグラバー亭を訪れたかった理由は観光名所だからでも、オペラ「蝶々婦人」の舞台になったところだからでもなく、この家主、トーマス・ブレーク・グラバーに興味があったからだ。幕末、薩摩・長州藩と手を組み武器を調達、日本の歴史上人気ナンバーワンの坂本龍馬を影で操ったグラバー。坂本龍馬が亀山社中を設立し、アメリカから武器が3ヶ月で届いたという話は当時の常識から考えられないものだった。
龍馬だけでない。グラバー亭には「隠し部屋」と呼ばれる屋根裏があり、そこに幕末、維新後に活躍した著名人が集まっていた。高杉晋作、伊藤博文などがそこにいたという。また彼らをヨーロッパに渡航させてもいる。龍馬も空白の6ヶ月があり、きっと龍馬もどこか異国の地を踏んでいるのではないかとも言われているらしい。
またこのグラバー亭にはフリーメーソン・ロッジの石柱が立てられている。グラバーも長崎に来る前に居た上海でメーソンとなったのでは、という説があるらしい。そもそもスコットランド・アバディーン州にある彼の故郷には多くのメーソンがあることで有名だという。
こうやって、歴史の秘密を解き明かそうとするのは実に面白い。
漂流民としてアメリカに辿り着き、日本人で初めてアメリカ国籍取得した「新聞の父」浜田彦蔵(ジョセフ彦)も横浜で日本初の新聞を発行した後、この長崎に来てグラバーの元で働いている。彼はサンフランシスコにある商社で働いた後、日本に来ているのだが龍馬が発注した武器がここから3ヶ月後に届いているというのと何か繋がりがあるのではないか?そう思わずにはいられない。
アメリカ建国も「開国の父たち」と呼ばれる多くのメーソンの手によって行われたと同じに、開国、明治維新もメーソンの手によって進んでいたのだ。その頃の幕臣、徳川慶喜の側近「西 周(にし・あまね)」もヨーロッパでメーソンとなり志士たちを欧州で密談させ開国をアプローチしていたのだ。
このグラバー園から眺める美しい風景を見ながら、トーマス・グラバーは望郷の念を抱いていたのか、それとも彼の手の中に委ねられている日本の行く末を見ていたのか・・・。
日本を今一度せんたくいたし申候
明治維新を見ることなく世を去った坂本龍馬は、姉・乙女に送った手紙の中でそう書き残している。グラバーに操られ、しかし日本という国を愛していたからこそ奔走し、その命までかけたのだろう。
この地、長崎が一瞬にして灰の町となってしまうことも知らずに・・・