父の7回忌でした・・・
気がつけば12月・・・忙しさにかまけて近頃少々ご無沙汰してしまいました。12月とは思えないポカポカ陽気の今日、父の7回忌を無事に終えることができました。あれから6年という月日が経ったなんて、早いものですね・・父は東京の池上という場所にある、日蓮宗本山 大坊本行寺というお寺に眠っています。そんなに大きなお寺ではありませんが、このお寺は、日蓮聖人が最後を迎えられ、ご入滅されたお寺です。以下 「本行寺縁起より・・」引用 日蓮大聖人御入滅(ごにゅうめつ)「御臨終」の霊場であります。 日蓮大聖人は今より七百余年前の弘安(こうあん)五年九月八日、九ヶ年の間住みなれた身延のお山をあとにされ、病めるお身体をくりかげの馬にゆだねられ同月十八日、ここ池上宗仲公(むねなかこう)「鎌倉時代の工匠(こうしょう)」の館にお着きになられました。病重く療養につとめられておられましたが、一時小康を得られるとお弟子、信者の方々に「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」の御講義をなされましたが、病いよいよあらたまり、十月八日には、本弟子六人[日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持]を定めて、後事を託し、十日にはお形見を分けられ、翌日には十四歳の経一丸(きょういちまる)[後の日像上人]へ京都開教を遺命され、枕元に大曼陀羅本尊(だいまんだらほんぞん)を掛けさせ、十三日の辰の刻[午前八時]、お弟子、信者一同が静かに法華経(ほけきょう)を読誦する中、御入滅なさいました。御年六十一歳であります。この時、大地は揺れ動き庭の桜が一度に時ならぬ花をつけたと伝えられます。大聖人の滅後、宗仲公は館を寄進して寺とし、「長崇山本行寺」と称し、大坊と通称されました。この後入滅になられたお部屋の跡に建てられたお堂を特に「ご臨終の間」とよび、昭和十一年三月、東京都の史跡に指定されました。堂内には立正安国論を御講義される時に寄り掛かられた「お寄り掛かりの柱」を始め、中央に大聖人自ら鏡を見て御自刻された「自鏡満願の祖師像」並びに「池上宗仲公御夫婦像」等を奉安し、御入滅の当時を今にしのばせております。そして、上記にあるように、10月くらいより、この時期に寒桜が咲いております。今日もこの桜がまだ散らずに咲いておりました・・・ 暖かい陽気に恵まれ、皆に囲まれて、父もきっと喜んでくれたことと思います。と、しんみりムードはさておき、今日の法事の会食は、有楽町の東京會舘にて行いました。ここ東京會舘の和食総料理長であられる鈴木氏は、母と同じ同郷、新潟の村上の方でして、お料理が素晴らしいことは元より、日本料理に伝わる、伝統的な四條流の包丁式の技の伝承と保存にも務めておられる数少ない粋なお料理人なのです。今日もまた美味しいお料理の数々を頂きました・・ 歳を重ねるごとに思うのは、久しぶりに会うのにいつも黒い服での会食シーンです・・こんなときばかり食事をするのはなんだか淋しいと思いますが、そんなときでも美味しいものを頂くと自然と笑顔で会話が弾みます・・・食ってとっても大事です・・美味しいってホント素敵です・・どんなときも最高のおもてなしを心がけようと改めて感じた私でした。