駅の管理業務「23人の死体、一日で片づけた」 男性(48) 2015年7月17日 朝日新聞
■脱北者の証言:50 男性(48) 1997年脱北(2000年4月にソウル、2013年4月にカナダ・トロントへ)
――北朝鮮ではどのような仕事をしていたのですか。
咸鏡南道の高原郡出身。1981年から7年間、黄海南道甕津郡の1198部隊にいた。そこで海岸警備をした。88年に除隊し、高原郡の「機動芸術宣伝隊」(軍宣伝隊)に入った。大体、郡ごとに宣伝隊はある。文化芸術会館に勤務しながら、各地域を回って宣伝活動をした。この隊の元締は党中央の宣伝扇動部。宣伝扇動部は、講演やスローガンなどを受け持つ宣伝部と映画や演劇などを担当する扇動部に分かれ、副部長が1人ずついる。我々は扇動部の傘下に属していた。大きな企業所や軍部隊は自前の宣伝隊を持っていた。
私たちの宣伝隊は女性と男性が半々だった。女性はみな独身で20代ばかり。男性は20~40代だった。出身成分(身分階層)が良くないと宣伝隊には入れない。そして、1、管楽器のうちどれか一つを演奏できる 2、弦楽器のうちのどれか一つを演奏できる 3、声楽か話術に秀でている――という三つの条件を満たしていないと駄目だった。1時間のうちに、隊員15人ですべての宣伝活動をこなすからだ。
――どんな宣伝活動をしたのですか?
北朝鮮の政治宣伝のやり方は大まかに三つある。1、掲示物 2、講演や学習会 3、芸術――の三つだ。芸術では、芸術作品を制作して見せて、みんなを鼓舞する。
宣伝隊には、党中央からその目的に応じた指示が来る。「金正日の誕生日だから、偶像化せよ」とか「田植え戦闘を鼓舞しろ」とか。演劇を作って上演するときもあるし、屋外の田植えのような場合は、音楽隊を編成・演奏して労働者を鼓舞した。放送車もあったが、それは大きな街で広範囲の宣伝活動を行う場合だけで、普通はメガホンを持って歩いて宣伝した。服装は全員、軍服と同じ色の服に、労農赤衛隊が使うような帽子をかぶって出かけた。大体、一つの農村には1年に2~3回は出かけた。
人々に感銘を与えないといけない。ただ、北朝鮮の人を感動させるのは、韓国人に対するよりも簡単だ。北朝鮮の人々は純粋だし、幼い頃から思想教育が徹底されている。娯楽も少ない。私自身も脱北するまでは、心の底から金正日は人々のために働いていると信じていた。宣伝のための行事をやるときは、大体1時間から1時間20分間ぐらいかかった。
挨拶から始まって、その日の主題に沿ったアピールを合唱形式などで行う。それから作品を上演し、続いて歌や演奏を行い、最後にまた挨拶、といった具合で進行した。
88年から91年末まで勤務した後、軍の党学校に6カ月通い、それから高原郡の党扇動部指導員になった。末端幹部として1997年まで勤務した。
◇末端幹部は「体制が崩壊したら最初にやられる」
――そこでは、どのような活動をしたのですか。
主な仕事は、国の指示するテーマに沿った講演会活動だった。企業所や農場や大学に出かけ、あらかじめ準備された原稿を読む退屈な仕事だった。70~80%は金日成や金正日の偶像化に関する話だった。田植えが迫っている時期であれば、前年にうまく収穫ができずに処罰された例などを伝えて、人々を戒めた。
「苦難の行軍」(1990年代半ばに起きた食糧難)が始まった後は、「米韓が経済封鎖するから苦しいのだ」「金正日同志の領導を受け、食べる物がなくても何とか克服せよ」と主張した。
恐ろしかったのは、聞いている人々の視線がだんだん厳しくなっていったことだ。みな無表情になり、厳しい視線を投げるようになった。私は末端幹部だから、体制が崩壊したら最初にやられるのは自分だと思い、恐怖した。
――経済難で印象に残っていることは何ですか。
1993年ごろ、高原駅の駅舎管理を3カ月ほど担当したことがある。高原駅は各路線が集まる分岐点で、人々はもちろん、コッチェビ(浮浪児)もよく集まっていた。当時はすでに食糧事情が悪くなっており、毎日何人かが駅で行き倒れた。酒を飲まないとやっていられなくて、何杯か飲んだ後に出勤した。一番多い時で、老人10人とコッチェビ13人の死体を一日で運んだことがある。
その後、公民証などを持っていれば、その名前を板きれに書いて、土葬した。そのうち、雨が降り、どこに誰が埋葬されているのかわからないようになった。「社会主義が何の意味があるのか」とそのとき思った。
当時、月給は125ウォン。あまりに少ない金額で受け取ろうとも思わなかった。末端幹部だから賄賂も少なく、配給もなかった。妻が市場で食堂をやって何とか食いつないでいた。
◇ラジオ購入 届け出せずに発覚、押収される
――ずっとその宣伝扇動の仕事を続けたのですか。
その頃、平安北道の安州化学工場に勤めている兄から「工場の製品を売って金もうけしよう」という連絡が来た。私は党幹部証明書を持っているから、国境まで検問を受けずに行くことができた。ジルコニウムを2.5キロ、新義州まで運び、中国の丹東から来た朝鮮族のチュ・インチョンという人物に売った。曳光弾(えいこうだん)の材料になり、高価だった。「ドルで代金を払う」と言われたが偽札が多いので、小麦粉で代価をもらい、新義州の市場で売ったら、230万ウォンになった。高原郡の市場で一番もうける人間でも1日10万ウォンだったから、莫大(ばくだい)な金額だった。
そのとき、子どものためにラジオを買った。本当は国家安全保衛部(秘密警察)に届け出て、チャンネルを固定して封印してもらわないといけないのに、韓国の放送が聴きたくて届けなかった。毎晩午後11時ごろから、イヤホンで韓国のKBSラジオを聞いていた。
しかし、保衛部が1997年末のある日、自宅を家宅捜索し、ラジオが押収された。外にいたところ、兄から「家に戻ったら、間違いなく死ぬ」と言われ、脱北しようと思った。
新義州(シンギジュ、北西部にある中朝国境の北朝鮮側の町)から鴨緑江を渡ろうと思ったが水深が深く、恵山(ヘサン、内陸部両江道の道都)から2千人民元(約3万円)を持って延吉に行った。その後、上海や青島などに2年半いて、ベトナム、カンボジア、タイと移り、2000年4月にソウルに到着した。
◇兄弟に迷惑がかかるので「行方不明」になっている
――政治犯収容所について聞いたことはありますか。
「入れば一生出てこられない場所」と聞いていた。高原郡109軍部隊に歩兵担当の副旅団長がいた。かっぷくのよい堂々とした人物だった。しかし、彼がソ連のアカデミー出身であることがわかった。(金正日暗殺を企てたとして、ソ連・フルンゼアカデミー留学出身者が粛清された「第6軍団事件」の影響で)ある晩、彼の一家に自動車が来て、全員いなくなった。ヨドク収容所に入れられたという話だった。
3年後に出てきたが、やせ細り、精神を病んでいた。道で会って挨拶しようと思ったが、人間を恐れているようで、私を避けるようにして行ってしまった。
ロイヤルファミリーについては、「話してはいけない」と言われていた。見たこともない。
――北朝鮮にいた頃、日本と何か関係がありましたか。
文化芸術会館の映写技師が在日同胞だった。キム・スギルという名前で、日本に親戚がいた。冷蔵庫やカラーテレビを持っていた。一緒に飲むとおいしい物も食べられるので、よく一緒に飲んだ。
――北朝鮮には親族が残っているのですか。
兄弟が4人残っている。迷惑がかかるので自分は行方不明ということになっている。一度韓国から金を送ろうとしたが、発覚してしまった。
韓国では北朝鮮向けの放送の仕事を手伝っていたが、そのうち、北朝鮮に目をつけられてテロの対象にされた。恐ろしくなり、2013年4月にトロントに来た。ソウルで結婚した妻と子ども2人がいる。
――カナダに住み続ける考えなのですか。
政治難民の認定がなくてもカナダにいたい。身の危険を感じるから。でも、カナダ政府は脱北者の大半(別の人権団体によれば95%)が「ウソの申告をしている」として、全員韓国に送り返すつもりのようだ。今は時期が悪い。北朝鮮が武力挑発でもしてくれれば、自分たちの懸念をわかってもらえると思うのだが、金正恩は自分たちを最後まで助けてくれないだろう。