カテゴリ:社会主義
毛沢東の犯罪を忘れるな! (はんぺん) (中略) 死者数は2,000万人以上・・・・文化大革命始まる 1965年(昭和40年)11月10日、姚文元は上海の新聞「文匯報」に「新編歴史劇 『海瑞罷官』を評す」を発表した。
すなわち、当時の中国政府の最高指導者たちに対する攻撃を始めた。 毛沢東の最高権力奪還闘争の開始である。
実権派攻撃は成功した。毛沢東は再び最高権力を掌握した。1966年5月16日、 中国共産党中央政治局拡大会議で毛沢東による「中共中央通知」が採択された。中央文革小組=新しい権力中枢機関の設置が決定された。
1966年5月25日、中央文革小組の支持を受けた講師7人が北京大学指導部を激しく批判する壁新聞を張り出した。
1966年5月29日、精華大学付属中学の学生によって紅衛兵が組織された。 毛沢東はこれらの動きを積極的に支持した。これを契機に 暴力団組織として悪評高い紅衛兵組織が、中国各地で続々と結成された。 毛沢東が天安門上から接見した紅衛兵の人数は1,000万人以上といわれる。
1966年8月8日、中国共産党十一中全会で、「プロレタリア文化大革命についての決定」が採択された。 「資本主義の道を歩む実権派を叩き潰すこと」と「思想・文化・風俗・習慣面での四旧の打破と四新の創造」という二つの目標が決定された。 劉少奇の党内序列が8位に格下げされた。鄧小平は平の党員に格下げされた。 劉少奇、鄧小平は軟禁された。
劉少奇国家主席をなぶり殺し
軟禁された国家主席・劉少奇は病におかされるが、散髪や入浴も着替えも許されず、 監視員には殴られ続け、医師には注射針をいたるところに突き刺されるなどの執拗な暴行を受け続けた。高熱をだしても治療も受けられず放置された。
寝台にしばりつけられて身動きができぬ状態で、地下の暖房のない小部屋に幽閉された。ついには劉少奇は発狂した。死亡の際には白髪が2メートルの長さに達し、かっての面影は全く失われ、まさしく幽鬼と化していた。 この残虐な復讐方法は毛沢東が人間性を持たない悪魔であったことを示している。
彭徳懐元帥に対する毛沢東の酷い仕置き
1950年6月25日、金日成の北朝鮮人民軍は、200機のソ連製戦闘機の支援を受け、ソ連製T-34/85戦車300両を先頭に韓国に侵攻した。 米韓軍を釜山周辺にまで追い込んだ。一時は金日成の朝鮮半島武力統一は 成功かと思われた。 しかしマッカーサー元帥率いる米韓軍の仁川上陸に始まる反撃で、ソウルを奪還され、ピョンヤンを占領され、北朝鮮人民軍は北の中国国境近くにまで追いつめられた。
この時点で彭徳懐が指揮した中国人民志願軍が参戦した。中国人民志願軍は、 米韓軍が思いも及ばなかった、煙幕をはっての大部隊の冬山踏破で、米韓軍の背後に大部隊を送り、補給路を断ち、北朝鮮に侵攻した米韓軍を殲滅した。ピョンヤンを奪還し、ソウルを再占領した。この大敗北に怒り狂ったマッカーサー元帥は、中国に原爆を投下せよと主張した。しかし彼はトルーマン米国大統領に総司令官を罷免された。
100万人といわれる中国人民義勇軍の総司令官であった彭徳懐は、北朝鮮から「朝鮮民主主義人民共和国英雄」の称号を贈られた。中国においては元帥に昇格した。 国務院副総理、初代国防部長を務めた。しかし大躍進政策を批判して、毛沢東の逆鱗にふれ失脚した。
文化大革命では、哀れ、紅衛兵たちに、反革命分子として曳きたてられ、 大衆の面前で容赦なく吊し上げられた。さらに、紅衛兵たちの凄まじい暴行を受け、 肋骨を2本折られた。その後遺症で下半身不随となった。その後、癌による死の床では、 鎮痛剤の注射を拒否され、下血と血便にまみれた状態のままのベッドとシーツに何日も放置された。監禁病室で全ての窓を新聞紙に覆われたままで約8年間を過ごした。死の直前、窓を開けて最後に空を一目見せてほしいと嘆願したが拒否され拷問死した。
中華人民共和国の建国と国防に、必死に、誠実に尽力した、忠誠心あふれる 愛国者であった老軍人の、あまりにも悲惨な、歴史上にも類をみない拷問死であった。
『ある紅衛兵の告白』より抜粋・・・・
私の学校においては、先ず校長がフルシチョフ的人物(毛沢東を批判する人物)として摘発され受難した。 私たちは、校長に、いちばん高い三角帽子をかぶせた。私たちは、校長に いちばん重い札をかけた。頭を虎刈りにして、顔に墨を塗りつけた。 私たちは、延々と校長批判を続けた。批判演説で私たちの感情は異常に昂ぶっていった。 何人かの革命的生徒は興奮して、ついに、校長を棒で叩きのめし、足で踏みつけた。
さらに彼らは、校長を足で踏みつけただけではあきたらず、校長の首に縄をくくりつけ、台の下に引きずり下ろし、犬のように吠えさせ、犬のように運動場を這い回らせた。 紅衛兵は自分たちの教師たちを軟禁し、毎日、10時間以上の重労働を課した。 わずかな時間も休むことを許されず、少しでも動作が鈍いと、すぐさま木刀や革靴で殴りつけた。夜になると、夜通し、教師たちの尋問とリンチが行われた。 (抜粋終わり)
恩師に対するこのような残虐・非道な行為は、 何時の時代においても、どこの国においても、決して許されることではない。
しかし、毛沢東の指令によって、このような、鬼畜化した紅衛兵の 残虐・非道な行為が中国全土で行われたのである。
文化遺産の徹底的破壊
中国4,000年の歴史の中において、「自分より偉い者はいない」と豪語した毛沢東は、1966年8月8日・中国共産党十一中全会の「プロレタリア文化大革命についての決定」で「実権派を叩き潰す」と並んで、「思想・文化・風俗・習慣面での四旧の打破と四新の創造」という余人にはマネできない発想で文化遺産の徹底的破壊を紅衛兵に指令した。 毛沢東によって理性的判断を失い鬼畜化した紅衛兵は、この毛沢東の気違い指令を100%忠実に実行した。
紅衛兵は文化遺産を徹底的に破壊した。
寺廟などの宗教施設が徹底的に破壊された。例えば、後漢時代に建立され、文革当時、現存する中国最古の仏教寺院であった洛陽郊外の白馬寺、及び、後漢時代から残る貴重な文物の数々はことごとく破壊された。
山西省代県にある天台寺の1600年前に作られた彫刻や壁画も破壊された。 四川省成都市にある蜀時代の城壁は現存する世界最古の城壁であったが破壊された。
明王朝皇帝の万暦帝の墳墓が暴かれ、万暦帝とその王妃の亡骸が ガソリンをかけられて焼却された。
中国屈指の書道家王羲之が書き残した書も破壊された。 あらゆる仏像が破壊され、経典が燃やされた。
チベットでは6,000箇所の仏教寺院がことごとく破壊された。 文化大革命が終わったときには8箇所しか残っていなかった。
こうして中国民族や周辺諸民族が数千年かけて築き上げてきた文化遺産は ことごとく破壊されてしまった。そのため、現在、中国の諸都市には、 人口数百万人の都市に1つか2つ程度の寺院しかないのが一般的であり、 それらも、ほとんどが80年代以降に再建されたものである。 再建したところで歴史的価値は戻らない。
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最終更新日
2020.07.11 14:49:54
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