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2018.03.21
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カテゴリ:北朝鮮

ラングーン事件   ウイキペディアから

場所 ビルマ連邦, ラングーン(現ミャンマー, ヤンゴン)アウンサン廟(英語版)

標的  全斗煥大韓民国大統領

日付 1983109日  1025 (MST)


概要  暗殺未遂事件

攻撃手段  爆破

兵器 クレイモア地雷


死亡者 21(徐錫俊韓国副首相ほか)

負傷者 47


犯人 北朝鮮工作員3 (実行犯) 在マレーシア北朝鮮大使館 (司令部)


動機 北朝鮮の外交的孤立からの予防策


対処 実行犯1名の銃殺、2名の逮捕


ビルマ政府による北朝鮮との国交断絶

国家承認の取り消し


ラングーン事件(ラングーンじけん)は、1983年にビルマ(現ミャンマー)のラングーン(現ヤンゴン)で発生した爆弾テロ事件である。「ラングーン爆破テロ事件」、「アウンサン廟爆破事件」などとも呼ばれる


事件概要[編集]


事件は北朝鮮工作員により、ビルマを訪問中であった大韓民国(韓国)の全斗煥大統領一行の暗殺を狙って引き起こされた。韓国では「ボマ事件(버마사건)」とも呼ばれている(「ボマ」はビルマの朝鮮語読み)。司令部は工作員が多数配置されていた在マレーシア北朝鮮大使館とされる[1]


韓国は、1988年のソウルオリンピック招致に成功したが、東側諸国や北朝鮮と親密だった非同盟中立諸国は、オリンピック参加を表明しておらず、ロサンゼルスオリンピック同様、これらの国家が不参加となる可能性があった。


このため韓国は、これらの国々に閣僚を派遣し、韓国でのオリンピック開催や、その際の参加を熱心に説得して回っていた。19828月に行われた、アフリカ諸国歴訪を始めとする一連の歴訪は、最悪の場合は北朝鮮を外交的に孤立させてしまうものであり、金日成主席を非常に苛立たせていた。この際、金日成は全斗煥の暗殺を計画するも、ソ連のブレジネフ政権が北朝鮮に圧力をかけ、中止することとなった。


しかし、198211月にブレジネフが死去。対アメリカ強硬派であるユーリ・アンドロポフがソ連共産党中央委員会書記長に就任し、北朝鮮に有事の際の積極的支援を約束すると、金日成は偵察局第711部隊に命じ、全斗煥の暗殺を実行し、韓国国内で共産革命が起きるか、大韓民国国軍が挑発してきた場合、南侵するといった計画を立案した。計画の立案は、金日成の長男である金正日であるといわれている[誰によって?]。また総指揮は、金正日の義弟で側近の張成沢の長兄にあたる張成禹が取ったとされている[2]


作戦の実行が決定され、198310月に、キム・ジンス少佐とカン・ミンチョル上尉およびキム・チホ上尉の3人がラングーンへ入り、大統領一行が訪れるアウンサン廟(英語版)の屋根裏に、遠隔操作式のクレイモア地雷を仕掛けた。


全斗煥大統領一行は、1983108日夕方、南アジア太平洋地域6か国(インド、スリランカ、オーストラリア、ニュージーランド等)歴訪の最初の訪問国である、ビルマのラングーンに到着し(韓国の大統領としては初めてのビルマ訪問)、サン・ユ大統領らの出迎えを受けた。翌日の109日、大統領一行はアウンサン廟へ献花に訪れようとした(ビルマを訪問する国賓は、日程の最初に霊廟へ参拝するのが恒例となっていた)。


同日午前1025分(現地時間)に、一歩先に現地に到着した韓国の駐ビルマ特命全権大使の車を、全斗煥大統領の自動車と間違えた実行犯によるクレイモア地雷の遠隔操作によって、廟の天井で爆発が起こり、21名が爆死(韓国側は副首相や外務部長官ら閣僚4名を含む17名、ビルマ側は閣僚・政府関係者4名)、負傷者は47名に及んだ。全斗煥自身は、乗っていた自動車の到着が2分遅れたため、危うく難を逃れた。


事件当日の午後には、大統領外国訪問中の留守を任されている形であった金相浹総理によって緊急閣議が招集され、大韓民国国軍と警察に非常警戒令を発令するとともに、北朝鮮の組織的な陰謀であると主張。外遊中の大統領一行は、訪問日程を取り消して韓国に帰国した。対して北朝鮮側は『韓国が北朝鮮を陥れるために起こした自作自演の事件である』と反発し、朝鮮半島は一触即発の状態になった。


また、日本やアメリカ合衆国等では実行犯に関して、当初は韓国の反政府組織説やビルマ国内のカレン族等の少数民族説、ゲリラ展開を続けるビルマ共産党説、またネ・ウィン前大統領に次ぐナンバー2と目されながら、当時失脚したばかりのティン・ウ准将の支持グループ説等、様々な憶測が飛び交っていた。


ビルマ警察の調査と追跡により、北朝鮮工作員3名は追い詰められ、銃撃戦の末に逮捕された。キム上尉は射殺され、キム少佐とカン上尉が重傷を負った。2人は警察に対して作戦の全貌を自供し、114日にビルマ政府は、犯行を北朝鮮によるものと断定して[3]3人の朝鮮人民軍軍人を実行犯として告発した。


 ビルマは裁判において、朝鮮語と英語を用いて、北朝鮮人である被疑者への裁判の理解力を確かめる努力をしたり、北朝鮮の外交使節や外国メディアにも公開した裁判などで、国際社会の信頼を得られ、当時名高い非同盟中立国であったビルマによる、北朝鮮によるテロリズムという結論は、国際的に認知された。


事件当時、ビルマは南北等距離外交を行っていた。ラングーンには双方の大使館があったが、ビルマは南北両朝鮮には大使館は設置せず、北朝鮮への大使は駐中ビルマ大使が、韓国への大使は駐日ビルマ大使がそれぞれ兼任していた。非同盟中立を標榜していたビルマは、北朝鮮との関係は、事件前はかなり友好的なものであった。


しかし、「建国の父」であるアウンサンの墓所を爆破し、要人の暗殺に利用するという行為に、ビルマ政府は憤慨し、北朝鮮との国交を断絶するのみならず、国家承認の取り消しという厳しい措置を行った[4]。その後両国の国交が回復する2007年まで、24年の歳月を要した。


この事件によりビルマだけでなく、他の非同盟中立諸国からも北朝鮮は顰蹙(ひんしゅく)を買うことになり、北朝鮮の思惑とは逆に多くのアフリカ諸国がソウルオリンピックに参加することになる(一方、東側諸国は4年後の大韓航空機爆破事件でソウル五輪参加に傾いた)


韓国側の死亡者[編集]


徐錫俊(国務副総理兼経済企画院長官)

李範錫(外務部長官)

金東輝(商工部長)

徐相喆(動力資源部長官)

咸秉春(大統領秘書室長)

金在益(大統領府経済担当首席秘書官)

閔丙錫(大統領主治医)


実行犯の自白[編集]・・・テ・チャンス司令官(北朝鮮の開城地区特殊工作部隊)の命令によって、以下の3人から成る暗殺班が組織された。

キム・ジンス少佐(逮捕)

カン・ミンチョル上尉(逮捕)

キム・チホ上尉(ビルマ警察との銃撃戦で射殺)


暗殺班は、99日に北朝鮮の貨物船・東健号で、甕津港を出港。916日にラングーン港へ到着。917日から24日までラングーン港内に停泊。ラングーン港到着後、在ビルマ北朝鮮大使館のチョン・チャンヒ参事官宅に匿われる(この参事官は、11月上旬に、ビルマの対北朝鮮断交で帰国)。


アウン・サン廟に爆弾をしかけたのは、107日夜10時頃で、指揮官のキム少佐が見張りにあたり、カン上尉が廟の屋根にのぼり、キム上尉から爆弾を手渡されて設置した。事件当日、アウン・サン廟に近いウィザヤ映画館附近で爆弾の遠隔操作によって実際に爆発させたのは、指揮官のキム少佐であった。


東健号(東建愛国号)問題 [編集]

北朝鮮軍特殊工作員兵士3名をビルマに送り込んだ「東健号」は、朝鮮総連に所属する兵庫県商工会会長の文東建が、日本の高知県で建造し昭和51年(1976年)に北朝鮮に寄贈し、金日成から直接に「東建愛国号」と名付けられた貨物船である。


この寄贈により、文東建は北朝鮮最高勲章の一つである金日成勲章を受章し、後に全演植(モランボン創業者)と共に、在日朝鮮商工人から初の朝鮮総連副議長となった。

当時、朝鮮総連議長ですら成し得なかった、金日成と文東建のツーショット写真が北朝鮮の日本語宣伝雑誌に掲載され、在日朝鮮人社会に大きな衝撃を与えると共に、それが「金銭の力で地位を買える」という事実を知らしめる結果となって、現在に至るまで、合法非合法を問わず日本国内から北朝鮮の軍事独裁体制を支えている、在日朝鮮人による北朝鮮への送金の始まりとなった。


ラングーン事件が起きた後に『週刊朝日』1983114日号が、「犯人の兵士をビルマに運んだ船が文東建の寄贈船である」と報じると、文東建は「そんな事実は無い」と否定し、週刊朝日を名誉毀損で神戸地方裁判所に訴えたが、裁判開始直後に文は死亡し、その後文の関係者は裁判を放り出したためにうやむやになった。


その後の変遷[編集]


キム少佐は死刑判決を受け1985年に執行。カン上尉は犯行を自供したため終身刑に減刑された。カン上尉は1990年代後半から心情の変化を生じ、刑の規定などで釈放されることがあれば韓国行きを希望すると述べたが、実現することはなかった[5]


20064月にはミャンマーが北朝鮮の外交関係を将来、全面回復することを実務者レベルの協議で合意。2007426日、北朝鮮側の代表である金永日外務次官とミャンマー側代表チョー・トゥ外務次官の間で正式に合意文書が署名され、24年ぶりに国交を回復。合意の背景には、近年の両国に対する国際的非難を牽制する狙いがあったとされている。


2008518日、カン上尉が肝臓癌のためヤンゴン近郊の刑務所にて死亡したと発表された。これによって、実行犯全員が死亡した。また総指揮を取ったとされた張成禹も、20098月に死去したことが判明した[2]


事件の舞台となったアウンサン廟は事件後、政府による厳重警備がされ原則閉鎖されていたが、事件から30年目の201361日に、一般公開が再開された[6][7]







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最終更新日  2018.03.21 00:00:08
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