1335643 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

はんぺん

はんぺん

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2024.06.09
XML
カテゴリ:学生運動

あまりにも稚拙な学生運動・・・(革命ごっこ)が、多くの死者を作り出したことに、人間の限界を見た    2024-6-9   はんぺん

今でも、当時の事を思い出すことがある。

 

当時のイヤな思い出は、忘れてしまいたい・・・という知人もいたが・・・簡単に忘れてもらっては困るというものだ・・・(総括)してほしい・・・と。

 

僕たちの時代、大学進学率は、同世代の1割だったとか。

ある意味、安定した将来が保証されていたハズの多くの若者たちが、社会矛盾に目覚めた結果、安楽な出世コースを軽蔑し、社会変革(革命)による、(人類の楽園)づくりに、邁進したということ・・・・

 

それが、なぜ、無残極まりない結果を招いたのか? 墓穴を掘ってしまったのか?(総括)すらできずに(一般社会)に逃げ込まざるを得なかったのか? 

 

100点満点の人間など、存在しない。常に(過ち)と隣り合わせにあるのが、人間だろう・・・(過ち)は、総括されねばならないが、その(過ち)自体が、人間の限界なのだろう・・・・

 

その(過ち)の程度に応じて、人類は、存立危機に陥ることも、高い確率で、ありうるだろう・・・と言ってきた。

 

(稚拙な学生運動)では、多くの死者、重軽傷者を生み出したが、人類歴史の中では、とるに足らない事件(事象)なんだろう・・・

 

今や(新冷戦)の時代・・・それに対応できない(懲りない面々の)政治党派が、蠢(うごめ)いていることに、人間の限界を見る思いだ。

 

皆さんは、どう思われるか?   はんぺん

――――――――――――――――――――――――

内ゲバで若者が殺し合った時代と、SNSで集団リンチが繰り返される時代  2024-4-2  雨宮処凛(作家、活動家) imidas(イミダス)

 すごい映画を観た。

それは代島治彦監督『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』(2024年、ノンデライコ配給)。

 

 今から約半世紀前、早稲田大学の文学部キャンパスで20歳の学生が約8時間にわたるリンチの果てに殺されたことを、どれくらいの人が知っているだろう?

 

 私がそれを知ったのは、21年に出版された樋田毅著『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋)によってである。映画は、この書籍と監督との出会いによって生まれたそうだ。

 

 事件が起きたのは197211この年の2月には、かの有名な「あさま山荘事件」が起きている。連合赤軍の若者たちが人質をとってあさま山荘(長野県軽井沢町)に立てこもり、警察と銃撃戦を繰り広げた事件だ。

 

この模様は連日テレビ中継され視聴率90%という驚愕の数字を叩き出し、また警察官が極寒の中すするカップめんが注目され、カップヌードルが爆売れするなどした。

 

 この事件の後、連合赤軍の若者たちが仲間を集団リンチなどの果てに十数人殺害していたことが発覚。陰惨な事実は、世間が学生運動にドン引きするきっかけとなった。

 

 私は連合赤軍事件の3年後、75年に生まれたのだが、自分が生まれる前だというのに詳細を知っている。それはこの事件が繰り返し報道され、半世紀経った今も語り継がれているからだろう。それだけでなく、何度も映画化され、書籍化されてきた。

 

 ちなみに連合赤軍メンバーは、「革命」という大義のために「共産主義化」できていない仲間を執拗に追い詰めていくのだが、きっかけは化粧をしていたとか服装が派手だったとかそんなもの。

 

が、ひとたび「総括」「自己批判」要求が始まると、集団はエスカレートしていく。人里離れた山中に作ったアジト「山岳ベース」にて集団での暴行が繰り返され、ある者は極寒の野外に放置され、ある者は「処刑」としてアイスピックで刺されるなどして命を奪われていく。

 

その数、山岳ベースだけで12人。加害者も被害者も、全員20代だった。

 

 私はこの事件を思い出すたびに、「正義」という言葉の持つ危険性に身震いする。それが暴走した時、人はなんでもできてしまうからだ。

 

自分は命を懸けて「革命」をしているのだから、「正しいこと」をしているのだから、「正しくない」相手を殺すことさえ正当化されていくという転倒。この事件は、誰もがハマる可能性がある「正義の罠」の危険性に今も警鐘を鳴らしている。

 

 そんな連合赤軍事件の少し後、内ゲバで多くの若者が殺されたことをどれほどの人が知っているだろう?

 

 私がそれを知ったのは、20年近く前。連合赤軍についての集会に呼ばれた時のことだった。すでに刑期を終えた連合赤軍の元メンバー(半世紀以上経った今も一部メンバーはまだ獄中)らとともに登壇した集会で、ある人が、連合赤軍事件だけがこうして後世まで語られているものの、その後の内ゲバでは100人以上死んでいる、こちらはまったく知られていないという主旨のことを話していて驚愕したのだ。

 

 え、そうなの? そんなの全然知らなかったんだけど。

 

 しかし、それらについて私は積極的に知ろうとはしなかった。また、それらのことがメディアで報じられることもほぼなかった。そうして時間が経ち、2021年、『彼は早稲田で死んだ』が出版された時、すぐに手に取ったのだ。そうして初めて、内ゲバ殺人の詳細を知ったのである。

 

 ここで殺された「彼」について、『ゲバルトの杜』の資料などから説明しよう。

 

 197211月、早稲田大学文学部キャンパスで殺されたのは、第一文学部2年生だった川口大三郎君(20歳)。

 

 彼は大学のキャンパス内で革マル派の活動家たちに突然拉致され、学生自治会室に連れていかれる。そこで約8時間にわたってリンチを受け、死亡。遺体は東京大学構内の医学部附属病院前に遺棄され、翌朝、発見される。全身が殴打され、あざだらけで骨折した腕からは骨が見えるような状態だったという。

 

 その日、革マル派は「川口は中核派に属しており、その死はスパイ活動に対する自己批判要求を拒否したため」という内容の声明を発表。しかし、川口君は中核派とはほとんど関係がなく、スパイ活動などもしていなかったという。

 

 学生が大学内でリンチの果てに殺される。しかも、「友人が拉致された」と助けを求めに行っても大学側は何もしない――。

 

 このようなことから一般学生による革マル派への抗議の声が学内で高まる。その過程で新自治会が樹立され、「革マル派追放」運動のリーダーとなったのが、半世紀後に『彼は早稲田で死んだ』を書くことになる樋田毅氏。中国語クラスでは川口君の1年後輩だったという。が、その樋田氏も、革マル派に襲われて重傷を負ってしまう。

 

 そうして川口君事件をきっかけに一層対立を深めた革マル派と中核派の内ゲバは激しさを増していき、互いの組織壊滅を目的とした殺し合いへとエスカレート。血で血を洗う内ゲバは、一般市民が新左翼から離れる大きな原因のひとつとなった。そんな内ゲバによる死者は100名を超えていく(この数には、中核派、革マル派以外の内ゲバも含まれる)。

 

 映画の中、印象的なシーンがある。

 

 それは内田樹(たつる)氏が当時を振り返る場面。彼は当時の若者がデモに行く時の傍若無人ぶりを語る。電車に乗るのも「なぜ、革命のために身を賭している自分がブルジョア企業なんかに金を払わないといけないのか」という理由から無賃乗車。それだけではなく、その辺のおでん屋さんにもお金を払わないというのだからこれはもう「ブルジョア云々」という話ではないだろう。普段、大人しい学生こそがそうして豹変するという。

 

「この内ゲバのことでいちばん怖かったっていうのは、ほんとうに大義名分が与えられると他人に対して容赦なく暴力を振るうことができる人間っていうのがこんなにたくさんいるっていうことですね。それはぼく、驚嘆しましたね」

 

 そう語る内田氏は、革マル派の友人を内ゲバで殺されている。

 

 そんな映画の冒頭では、川口君の殺害シーンが若い役者たちによって再現される。殺す側は何度も「革命のため」と口にする。「選ばれし自ら」に陶酔したかのように。リンチの最中、川口君の友人たちが、彼を返してほしいとやって来ても、鼻で笑って追い返す。

 

「これは階級闘争のレベルのことだ。階級闘争を担っていない君たちには関係ない」と。

 我々は歴史を変えるような高尚なことをしているのだから、何もしていないお前らの要求などに従うわけがない、ということである。こんなことを言う時、気持ちよかっただろうな……。そう思う。

 

 さて、それでは私たちは、「大義」や「思想」によってガラリと変わる学生たちを「愚か」と笑えるのか。

そう思うと、日常に、これとよく似た光景が繰り広げられていることに気づく。

 

 街頭ではない。大学内でもない。スマホやパソコンの中のSNSで日々、集団リンチが繰り返されているではないか。そしてそれが、実際に人の命を奪っているではないか。

 

 その中には、「正義感」を動機とした炎上のなんと多いことか。

 

「こんなことをするのはひどい」「許せない」という憤り。そして自らがしているのは、間違った人間を正すための「世直し」行為であると信じているような態度。

 殺人犯というデマを流され、長年ネットでの誹謗中傷に苦しんできたお笑いタレントのスマイリーキクチさんは、Addiction Reportのインタビュー「ネットでのバッシングは『憎しみ依存症』 人は『正義感』から人を叩く」(もうタイトルからして言い当てている)にて、薬物などで逮捕された著名人に対するバッシングについて、以下のように語っている。

 

〈叩く材料や落ち度がある人間に対しては、人はすごく凶暴になるなと思います。人を叩くことによって自分はモラルを守る人間だというのを主張したがるのでしょう。だからあそこまで執拗に叩き、追い詰める〉

 

 そうしてSNSでの「一番の人気メニュー」は「怒り」だと指摘する。

 

〈やはり「怒り」が一番「共感」と「発散」と「興奮」を生む。この3つが引き出されるのは怒りなのですよね。悲しみや楽しさよりも、怒りの方が、みんなでスクラムを組み、自分はいかに正しい人間なのか証明することになります〉

 

〈みんなが人を叩くことにこれだけ酔いしれるのは、群集心理もあるのでしょうけれども、その人を社会的に抹殺することが「正義」とされてしまう時代だからなのだろうと思います〉

 

 一方、評論家の與那覇潤さんは、京都アニメーション放火殺人事件に関する朝日新聞デジタルのインタビュー「『除菌思考』進む日本 『無敵の人』を『無敵』でなくすのは相互接触」(24124日、朝日新聞)で、「社会の脱臭化」という言葉を使い、以下のように語っている。

 

〈平成の後半から、日本では「社会のデオドラント化」が進んだと感じています。ネガティブなものは、そもそもこの世に存在しないでほしい。少しでもにおったらスプレーをかけるように「除菌」しようとする傾向が強まりました。同じ時期に普及したSNSは典型です。気に入らない言動や表現を見たとき、「みんなでたたいて、世の中から消してしまおう」とあおる人が増えました〉

 

 この言葉に、さまざまな事象を言い当てられた思いがする人もいるのではないだろうか。

 

 1月、テレビドラマ『セクシー田中さん』原作者で漫画家の芦原妃名子さんが亡くなった。

 この件について、私は全然詳しくない。しかし、訃報が報じられる数日前、SNS上での「騒ぎ」はちらっとだが目にしていた。あくまでも私が目にした限りだが、自らの「正義感」からなのだろう、強い言葉で特定の人や組織を非難する言葉が多くあったことを記憶している。そのことは、芦原さんにとって、想定していた数万倍の反応だったのではないだろうか。その大きさに、驚愕したのではないだろうか。

 

 そう思うのは、私自身、何度か炎上や炎上的なものを経験したことがあるからだ。自分の意思とは関係なく拡散され、飛び火していき、手がつけられなくなる恐怖。みんなが自分に怒っていて、今すぐに死んでお詫びしなくてはと思わされたことは一度や二度ではない。

 

 今でも、「あの時、騒動がネットニュースになってたら自殺してただろうな」と本気で思う。自分に突きつけられている銃口が、秒単位で数千、数万と増えていく恐怖。死にたいよりも、一刻も早く死んで詫びなくてはという焦りにも似た思い。

 

 特にX(旧Twitter)の危険度はダントツに高い。私の友人は以前、Twitterを「核兵器や原発と同じで人類には扱えないもの」と評していたが、まったくもってその通りだ。私たちは、自分では到底手に負えない殺人兵器を手にしているのである。

 

 そんなSNSが普及する現在、私は連合赤軍事件を彷彿とさせるような恐ろしい光景を何度も見ている。

 

 例えば連合赤軍も中核派も革マル派も、一般人からはよくわからない微妙な差異があることで対立し、殺し合いをしてきたように見え、それは異様な光景として私たちの目に映る。しかし、令和を生きる人々はそれを笑えるだろうか?

 

 前述した與那覇氏は、以下のようにも述べている。

 

〈かつてリベラル派と呼ばれる人たちは、異分子と共存していくことを説いたはずなのに、今は、敵視する相手の排除に率先して走る動きばかりが目立ちます〉

 

 確かに、SNSを見れば昨日まで同じ方向を向いていると思っていた人たちが、ワンイシューの違いでいがみあっている。誰かが誰かをジャッジして踏み絵を踏ませようとし、相手が思い通りに動かないと「味方だと思ってたけどあいつは敵だ!」と犬笛を吹く。そうしてわずかな違いで「敵認定」されるとたちまち攻撃の対象になる。

 

 一方、見知らぬ人も通りすがりにナイフを突きつけてくる。この問題についてどんな態度を取るかでお前を生かしておくべきか社会的に抹殺すべきかジャッジしてやるから答えてみろ、という脅しだ。そうしてあらゆる方向から「思想点検」されるという地獄。

 

 連合赤軍は、希望した者が山に入り、そこで仲間殺しという悲劇が起きた。しかし、今はSNSで、いつ誰が生贄になるかわからない。昔だったら「連合赤軍に入らない」「活動に関わらない」という選択があったものの、今はいつ誰が断罪されるかわかったもんじゃない。

 

今、どれほど気をつけていようとも、過去の言動の発掘に熱心な人もいるのだから一瞬だって心安まる暇がない。「心理的安全性」という言葉が注目される昨今だが、世界で一番くらいにそんなものがない場所で、取り返しのつかないことが日々繰り返されている。

 

 映画の中、「革命のため」と叫ぶ若者たちは気持ちよさそうだと先に書いた。が、SNSで誰かを断罪している人も万能感に震えているように見える。人をジャッジするのは気持ちいい。ダメ出しするのは快楽だろう。村中直人著『〈叱る依存〉がとまらない』(22年、紀伊国屋書店)という本には、〈誰かを罰することで、脳の報酬系回路は活性化する〉という研究報告が紹介されている。

 

 私の中にも、自分が正義の側に立ち、誰かを心ゆくまで罵倒したいという後ろ暗い欲望がある。特に人生がうまくいっていないと感じる時ほど、そんな欲望は強くなる。

 

 だけど、私は知っている。SNSの普及による正義の過剰な行使や分断の広まりは、世界中で起きていることだと。私たちは今、人体実験されているようなものなのだ。

 

「どうして半世紀前の連合赤軍事件なんかに興味があるの?」

 時々、聞かれる。その理由は、正義のもとに何もかも正当化されると思う人間の愚かさが、少しも変わっていないと思うからだ。いや、それどころか、過去よりも人間はずっと愚かに、そして傲慢になっていると思うからだ。

 

 そういう意味では、『ゲバルトの杜』は、半世紀前を描きながら極めて今日的なテーマを扱ってもいる。日々、SNSの内ゲバにうんざりという人も、ぜひ見てほしい。525日から、全国順次公開である。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2024.06.09 22:35:24
コメント(0) | コメントを書く


PR

カテゴリ

コメント新着

キーワードサーチ

▼キーワード検索

お気に入りブログ

続・源平合戦として… New! 七詩さん

90歳。何がめでたい★… 天地 はるなさん

フリーページ

プロフィール

h1212jp

h1212jp

カレンダー

楽天カード

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X