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ある会社で、 社長さんが、 あまりにもいい加減なことばかりやるので、 従業員たちが 自分達で、キチンと仕事しようと、 書類を整理したり 作業場を整理したり、 仕事の効率を上げようと、 工夫したそうです。 従業員は社長も喜んでくれるだろうと 社長に報告に行くと、 「いい加減でいいんだ。オレが仕事しにくくなるだろう」 と言われたそうです。 従業員は、 社長のあまりにもやる気のなさに、 呆れ果てて、 やる気をなくしてしまったそうです。 (しかし後に、従業員たちは、自分たちで会社を良くする意義を見いだし、コツコツと実践を続けています。) 実は、 この類いの例は時々あるのです。 事実、 この社長さんはいい加減に見えます。 しかし、 このいい加減(に見える)な社長さんのところに 仕事が来るのです。 人が集まるのです。 社長がいい加減だから、 余計に従業員が ‘キチンとしなくては・・・’ と、がんばっているのです。 happyは、 いい加減であることが良いことである と言いたいわけではありません。 この社長さんの ‘いい加減さ’(=欠点)にばかり目を奪われて、 他の能力を過小評価してはならないと いいたいのです。 その社長さんにも、 愛する奥様がおられ、 ご家族もおられるのです。 私も正直、不思議です。 結局、happyが言いたいのは、 人間を批判する前に、 その人の存在の価値を 過不足なく見極める必要がある、 過大評価もダメ。 過小評価もダメ。 そういう意識で真の人間像を評価する必要がある、 ということなのです。 ただ、本当に過不足なく その人の存在の価値を見極められるかどうかは、 見る人の眼力の問題ですから、 happy自身が、 人を見る眼力を養わなければならない訳です。 (過去の自分は、自分以外の人間は‘レベルの低い人間’という思想にとりつかれていました。今思うと、そういう過去の自分こそがレベルの低い人間であったことに気づき、赤面する思いです。) 皆様、コメントをありがとうございます。 毎日がハッピーです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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