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Easy Going~気楽に行こう~

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2018/09/20
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テーマ:希死念慮(10)
先日の通院日は、体調が悪すぎて通院できなかった。
今日、主人に付き添ってもらって通院した。
診察室で、この所ずっと自分の心の中で起きていたことを、意識化して言語化して、先生にも主人にも聞いてもらった。

この夏は、ずっと体調不良で寝たきりだった。
いつからか、夕方暗くなる頃にごはんの支度がないことを、やたら気にするようになっていた。
「暗くなってきたけど、ごはんの支度がない。主人も何時に帰るか分からない。ごはんがない…」
19時頃から暗くなり、主人の帰宅は22時~23時が大半。いつも遅くなること、遅くなってもいつもお弁当などを買ってきてくれることは、頭ではちゃんと分かっていた。
それなのに、その間ずっと「暗くなってきた…。ごはんがない…。ごはんがない…」になっていた。
この夏、毎日がずっとそんなふうだった。強迫的だった。

9/1は妹たち(双子)の誕生日。
妹たちは、私が小3の時に生まれた。その時のことを改めて思い出したことで、やっと、この夏ずっと背負いこんだ苦しみが判った。


妹たちが生まれた前日までのごはんは、あったのかなかったのか分からない。
当日9/1始業式の朝ごはんはなかった。
式は午前中に終わり、11時ぐらいに帰宅。父も母もいなかった。お昼ごはんもない。
夕方になって、父が帰ってきた。妹たちが生まれたことを聞いた。父は、プレッシャー重圧みたいな感じで、少なくとも嬉しそうではなかった。そして病院に連れて行かれた。
真ん中の妹は、母と同じ病室にいた。末の妹は未熟児だったので、保育器の中で栄養チューブ?をつなげられていた。
「ごはんもらってる。いいなあ。おなかすいたなあ」
そんなことを思ってしまって、妹たちが生まれて喜ばなきゃいけないのに、お姉ちゃんなのに、これではいけないと思った。
その日の夜ごはんを父が用意するはずもなく、翌日も朝ごはんはなく、お昼の給食でやっとごはんを食べれた。

小学校低学年の夏休みが明けると、必ず2~3キロ体重が落ちていた。
いつも下痢していた。子供なりに、アイスクリームを食べてお腹を壊したのだと解釈して、アイスクリームを食べないようにした。大人になっても、その習慣はしばらく続いた。
今思えば、給食しか食事がなかったのだろう。下痢は栄養失調だったのだろう。
育ち盛りの小学生の体重が減ること事態がおかしい。


妹たちが生まれる前、私が学校に上がる前に、母の帰りが遅いことが度々あった。4歳~5歳だろうか。
母は働いていなかった。それなのに、夕方になっても、日が暮れても、帰ってこない。
頼れる親戚の伯母に電話した。
「おばさん、またおかあさんかえってこおへん。ごはんがあらへん」
電話の向こうで伯母は、
「そうかねえ、こまったねえ、あかんねえ」
と言うばかりで、らちがあかない。
やっと母が帰ると電話を切った。もうすっかり真っ暗だった。帰ってきてホッとしたものの、それからごはんを作ってもらえたとは思えない…。
伯母が母に注意してくれて、早く帰ってきてごはんを作ってくれるようになれば、それだけで良かった。それだけだった。

ある日、母は帰ってこなくなった。その日の記憶はない。
それで父が食事の用意をするはずもなかった。

朝起きて、ジャムパンが1つ転がっていたことがあった。
ペロンと5秒で食べた。
父に盗られないよう急いで食べた。食べてしまえば、いくら殴られても蹴られても返さずに済むと、急いでお腹にしまった。
パンは1つしかなかった。足りなかった。目に入る所にはなく、それ以上は探せなかった。また、くたんと寝た。

エサはそれだけ。
お風呂には、ずっと入ってなかっただろう。
うちの掃除など、誰もやってなかっただろう。
頭はボサボサで、爪は伸び放題で、アカもたまっていただろう。
服を着替えることもなく、そもそも着替えもなかった。

しばらくして祖母が家に入ってくれた。食事情は改善されたはずだけれど、心許ない…。
と言うのも、近所のおばあちゃんに、あまりに私がやせてギスギスなので「骨皮筋右衛門」というあだなをつけられて、そう呼ばれるのがイヤでイヤでたまらなかった…。
そのおばあちゃんが祖母の友人だったことを思うと、祖母が家に入ってからも十分に食べれてなかったのだろう。
(そのおばあちゃんは、むしろ、よその家の子供の私に、ちょくちょくお菓子や果物をくれる人だった。その時は、そのありがたみが分からなかった。)

結局、私が小2の頃に、母は戻ってきたのだろう。小3の9月に妹たちが産まれているので。
母が戻ってきた日の記憶もない。


生きるための食事さえない。いろいろな世話もない。
どうして生まれてきたのか分からなかった。
どうして生きているのか分からなかった。
ゆるやかに餓死していく苦しみから、逃れて楽になるためにできるのは、死ぬだけだった。
子供すぎたので自殺できなかっただけのこと。

今年2018年の夏の間、ずっと、その45年程前の記憶を追体験していた。
過去の経験として思い出しているのではなかった。今まさに体験しなおしている現在進行形だった。過去のことだと気付けなかった。
この夏の間中、毎日ずっと、子供の頃の「暗くなってきた…。ごはんがない…。ごはんがない…」になって、その状態のまま何時間も動けなくなっていた。文字通り寝たきりだった。
その4歳~5歳の頃の、何も出来ない状態に退行して、凄まじい希死念慮に襲われていた。
そういう事が、今夏、起きていた。


その希死念慮と、もう一つ。
父の虐待の暴力も凄まじかったけれど、中学のいじめ(リンチ)の暴力も凄まじかった。
この夏、7月上旬の西日本豪雨災害で高校の仲間が3週間も安否不明で、おそらく私はヘトヘトになっていた。
そこへ、8/2に姑の訃報。身近すぎる実際の死。
そういう時に、主人から、義妹(主人の妹、姑の介護を一手に引き受けていた)が私を避けていることを聞かされた。そのこと事態は10年以上前から気付いていたけれど、ソツなく親戚付き合いするよう心掛けていた。
しかし、まさに身近な死に直面している時に「避けられている」を聞かされてしまった。また、姑の葬儀にも、その後の甥の結婚式にも出られず、その疎外感は仲間はずれにされていた時につながった。
仲間はずれ、嫌がらせ、避けられる、いびりなどが、いじめで毎日リンチされていた恐怖につながり、父の虐待の恐怖につながり、PTSDのスイッチが入って、殺される恐怖になってしまった。
いつ殺されるか分からない恐怖から逃れるためには、相手を殺すか、先に自ら死ぬか。
そんな希死念慮にも襲われていた。
これもまた、過去の恐怖が現在に重なって、過去形ではなく現在進行形だった。


そんなこんなで、主人がいつ帰るか分からないまま餓死していく苦しみから逃れるためにも、いつ義妹に殺されるか分からない恐怖から逃れるためにも、自分で死んで、苦しみや恐怖から解放されたかった。楽になりたかった。

そんな2つの希死念慮を、ずっとPTSDの追体験だと自覚できないまま、夏の間中さいなまれた。


そんな話を、今日の通院で主治医に話せた。付き添って来てくれた主人にも聞いてもらえた。
心の中の無意識下で起きていることを、意識化するのはものすごく大変で、それを更に言語化して相手に分かるように話すのも、ものすごくエネルギーを使う作業だった。

主治医は、私が虐待されて自分の意思を持てなかった・主張できなかっただけに、私が意思表示することを、そして私の意思を尊重することを、治療方針として大切にされている。
今回、私が抗うつ薬を増量したいと申し出て、増量されることとなった(それはさすがに主治医の判断で、もっと早く増量して欲しかった)。
あと、入院もずっと検討している。主治医としては入院させたい気持ちが山々のように感じられるのだけれど、「自分の意思で入院しないと、せっかくの入院も効果が半減する」と、主治医の判断はあえて仰らなかった。


今日の通院は、そんなふうだった。


診察が済んで受付で待っている間、主人はネットを見ていた。
病院のすぐ近くの伊勢丹で、九州展をやっていた。長崎の福砂屋さんのカステラを売っている。ここのカステラは、とびきり美味しい。
病院を出て、私は(体調不良でフラフラなので)真っ直ぐ調剤薬局に向かい、主人にはカステラを買いに行ってもらった。

もうそろそろ3年になる。長崎旅行は楽しかった。
じもげん(地元っ子の長崎の方言)の友達は、「長崎では、エルメスのバッグよりも福砂屋さんの紙袋の方がステイタスがある!」なんて断言していたのを思い出す。
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ふと、その友達が、私が首を吊って自殺したと知ったら、きっと泣くだろう、ものすごく辛い思いをさせてしまうだろう、と思った。
そう思ったら泣けた。調剤薬局の待合室で、涙を拭いた。
しばらくして、まだ調剤を待っている間に、主人がカステラを買ってやってきた。主人にもその話をして、また少し涙を拭いた。


主人も私も昼食抜きだった。
夕方になって暗くなってきた頃、遅めの昼食というか早い夕ごはんを食べた。
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お腹に食べものが入って、心底から落ち着いた。

帰宅して、故郷岐阜県の美濃加茂市山之上の梨。
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そして、福砂屋さんのカステラ。
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それから、甥っ子の結婚式の引出物のバウムクーヘン。
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その後、主人は「なんかしょっぱいのも食べたい」と、ポテトチップスも開封。

次から次へと食べものがあるもんだ。


死の恐怖や強い希死念慮を吐き出せた分、心の中にスペースが空いて、そこに「自殺すれば悲しむ友達がいる」を入れられた。

「現在は安全。危険はない。」とノートに赤で書いてみた。
これが本当に現実で当たり前のことなのに、書いてみて、まだすごく違和感があった。
いっそ、紙に書いて壁にも貼ってみた。
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そこまでするかと、我ながらアホらしい気はした。
けれど気が付くと、何度も何度も、壁を見て再確認している。
こうやって少しずつ、今は死の恐怖がないのが現実だと、上書き保存していければ。


次回の通院は10/1。
それまでに「夕方になってもごはんがない…」の恐怖が改善しなかったり、畑に行けないようなら、入院しよう。


餓死の恐怖体験は、解離性健忘していて、ずっと私自身が知らなかった。
家庭菜園を始めて、いつでも家に何らかの収穫物があって、更に、自分が元気でいつでも食事の支度を出来ることで、もう絶対に餓死しない安心感が生まれた。その前提で蘇った記憶だった。
本当に全く知らなかったので、記憶が蘇った時は大ショックだった。

精神科の入院は、やったことがないので、敷居が高い。知らないことなので怖い。
本当は入院治療をして、カウンセリングをメインで記憶を整理した方がいいのだろう。しかし、どんな記憶が出てくるのか全く分からない。向き合うことが、ものすごく怖い。
できるなら、入院せず、畑を再開したい。秋冬野菜の準備に取り掛かりたい。今やらないと、冬も春も収穫がない。何より、餓死しない安心な環境を改めて築き直したい。
一方、入院して「1日3回、何もしなくてもごはんが用意されて、規則正しい生活を送る」という体験も、子供の頃にやっていないだけに、一度ちゃんと経験しておいた方がいいとも思う。
ま、今日明日決めることでもない。ゆっくり決めよう。今しばらくは落ち着いて休もう。


それにしても。
この年になって振り返ると、父も母も、自分だけは外で食事を済ませていたのだろう。





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最終更新日  2019/03/11 06:49:40 PM
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