テーマ:障害児と生きる日常(4432)
カテゴリ:障害者・高齢者
私は生まれて30年、身体障害者福祉法に基づく身体障害者に認定され27年になり
地域小学校、中高は養護学校(現・特別支援学校)そして現在一般企業で働いている者として 思っている事がある。 それは最近のバリアフリー運動が、当初我々が注目され始めた頃と違い、国や自治体も含め 「のれん(看板)や関係者のメンツに捕われ過ぎてないか?」と思ったからだ。 バリアフリーと言う言葉が用いられ運動が注目され出して運動をし出した当初の目的と言うのは、設備(建物等)の改良や、サポートの仕方を説明し協力してもらう事で 障害になっていない部位(残存機能)を生かして健常者と同一の事も出来ますよ だからその部分に付いて一緒に仲間に入れて下さい。等 「誰にでも筋が通り説明出来る物」が運動の柱だったし、だから大多数の健常者の理解も得れ、広がった。 この運動は当時としては必要な物だったし否定はしない。 何より私自身障害者だから否定するわけが無い。 ところが最近のバリアフリー運動は障害者の「害」の字がいかんから「障がい者」にしよう とか、養護学校の養護がいかんから「特別支援学校」にしたり国も自治体も一部の保護者も看板(外面)(そとづら)や見た目(メンツ)に捕われすぎてると思う。 障害への理解と言うのは「文字やメンツを変えたからと言って周囲に理解されるものでは決してない、当事者や当事者関係者の詳細な説明こそが理解への最大であり唯一の道である」のだと そう言えば昨日放送終了したNHK総合テレビの土曜ドラマ「病院のチカラ青空ホスピタル」の5日の放送のラストで院長(津川昌彦)の悪性リンパ腫を発見したともみ(菊川玲)が 病気を隠そうとする院長に向かって「(病気を)隠して何になるんですか?」と詰め寄っていた。 私も同意見で教科書の表紙を替えても先生(当事者や関係者)にろくに説明する気が無かったり、すぐ先生が無理解・無協力と発した(怒鳴った)りすれば生徒(説明される側の健常者)は当事者や関係者に怖くて聞けないだろう。 つまり説明せずしてすぐ周囲を無理解・無協力と発する一部の親達は学校の教師で言えば典型的な「悪い先生」で要・再研修と言うべきだろう。 今回の教育改革答申で「親学」は見送られたがこの様な事を言ってしまう障害者の親の一部は国がやるかどうかは別にして直ぐにでも 「親学」が必要な人も居る。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年05月13日 23時24分44秒
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