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童話の読み物としては読んでいたのですが、絵本という形式ではこのシリーズは初めましてです。
『くまの子ウーフのたからもの 』。 もともと、この物語はウーフの幼さとあどけなさがの中の日常を描いたものではあるのですが、大人が読むとはっきりと「哲学書」だって分かるんですよね。 それを絵本でどこまで表現しているのか気になりました。 ウーフがポケットにどんぐりを入れて坂道を上っていると、後ろから誰か歌う声がします。 その歌声はネズミなのですが、どんぐりを拾いながらの歌声でした。 このどんぐりはウーフのポケットに穴があいていて、零れ落ちたものでした。 しかし、ウーフはそれをねずみ譲り、自分は他の楽しいことを探します。 そして、ウーフの目の前にあったのが、ドロップみたいだけど、まんなかにあなが4つあいてるものでした。 ウーフはこれを自分の宝物と決めて、木のうろに隠します。 翌日、ウーフはうさぎに出会います。 うさぎはスカートのボタンがなくなったことをウーフに伝えます。 なくなったボタンの上下にはなくなったものと同じボタンがあり、ウーフは見覚えがあるような気がしますが、それが何だったか思い出せません。 ウーフはそれを探す前に、自分の宝物をうさぎにみてもらおうと、うろに誘います。 そのうろに手を突っ込むウーフですが、あるのはどんぐりばかり。 そこへ、昨日のねずみがやってきて、自分の蔵に手を突っ込むウーフにどなります。 ウーフは自分の宝物の存在をネズミに聴きます。 そこへ乳母車にのった子ねずみたちがやってきます。 その乳母車の1つの車輪がウーフの宝物と同時にうさぎのボタンでした。 ふたりは、それぞれの探し物を見つけたことでタメ息をつきながらも、それらをそのままにして帰宅の途につきます。 この作品の最後に作者が「刊行によせて」と言葉を綴られているのですが、なんてこの作品、50年近く前に雑誌に連載されていながら、未刊行のままだった作品だそうです。 これを発見したのは「三鷹市神沢敏子研究会」で、当人はまったく忘れていたということでした。 これまで刊行された作品同様に、大人が読むとかなり複雑に感じる作品でした。 結局、この一連のエピソードにより誰が得して、誰が損をしたのかということをつい考えてしまいます。 しかし、損得という言葉を脳裏に浮かべること自体どうなのか。 また、ウーフの宝物とうさぎのボタンは二人が乳母車の車輪として目にした時、同一のものであることを理解しているのか。 客観視しているというよりは、子どもならではの主観的な視野の狭さを描いているのではないか(いい意味で)。 細かいことを記し出すとわずか25ページ余りの絵本の中にひっかかるところがたくさん湧いて出てきます。 これをどのように自分の中で落とし込んでいくのか。 絵本になっても変わらない鋭さをひょうひょうと綴っていて、宿題だけがたまるような感じでした。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年03月15日 07時00分09秒
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