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今日の透析タイムは実に素晴らしかった!ハレルヤ! 透析中に御言葉を読み、本当に解放された。 岩波訳聖書を読んでいますが、本当に聖書って訳の仕方ひとつで、伝わってくるニュアンスって違うんですね。 今日は、マルコ福音書12:28~34をじっくりと読みました。 他の聖書では、大切な戒めは、「~せよ。」と命令形で書かれてある。ところが、原文は未来形。命令形のニュアンスはあるが、元来は未来形で書かれてあるそうだ。 「聞け、イスラエルよ。われらの神なる主は、一なる神である。そこであなたは、あなたの神なる主を、あなたの心を尽くし、 あなたの命を尽くし、あなたの思いを尽くし、あなたの力を尽くして愛するであろう。」第二ものはこれだ、 「あなたはあなたの隣人をあなた自身として愛するだろう。」 だろう。・・といわれているところを見たときに、なんともいえない、平安と喜びが湧き上がってきました。 ~せよ。といわれていた時は、何か自・分・が・そうしなければならないような錯角さえ感じてしまっていた箇所だった。 でもそれは違うのだ。未来を主はご覧になっていた。主の十字架と復活を通し、一なる神が、私の内にいのちの御霊を与えられる。内におられるお方のゆえに、初めて可能となることを、望み見て話しておられるかのようだ。 ヨハネの7:39 「 これは彼を信じる人々が受けようとしていた霊について言ったのである。つまり、イエスがまだ栄光を受けていなかったので、霊はまだな・か・っ・た。」 聖霊はいなかったというのか?いえ、そんなことはない!永遠に存在されるお方だからだ。イエスの栄光とは十字架による死である。贖いを通してでなければ御霊は、信じるものの内に住まわれる御霊、内なるいのちとはなっていなかったのだ。この信じる者の内にいのちとしての御霊が与えられて、この大切な戒めが、このお方によって可能になるのだ!アーメン! 能力によらず、我が霊によって、といわれるとおりである。 もうひとつの戒めが、またいい・・。「あなたはあなたの隣人をあ・な・た・自・身・と・し・て・愛・す・る・で・あ・ろ・う」 あなた自身として愛する愛の、身近な例は、母が子を自分自身のように、いえ、それ以上に愛する姿である。 しかし、母の愛に勝る愛が、一なる神の愛、自らのいのちを注ぎ出して愛する愛だ。まさに私自身を、主ご自身として愛してくださった。このみ言葉通りに・・。 いのちを注ぎ出す愛で愛する。そのような愛で隣人を愛することができるのは、まさに内なるいのちの御霊のパワーでなくて、なんだというのであろう! ここの見えてくるものがある。 互いに愛し合いなさい。という御言葉だ。 なにに頼ってそうするのか明白だ。そしてその愛はお互いに、注ぎ出す愛であることだ。内に与えられたいのちをお互い注ぎだす。旧約の幕屋のように、互いに結び合わされた立て板のように、キリストの体が建てあげられていく。キリストの体が建て上げられることを抜きにして、どんなに大きな教会堂ができたとしても、それは、むなしい。使徒時代、それぞれの家がいつでも礼拝場所になった。それで充分。そう思う。 ハガイ書の御言葉1:4~ 「この宮が廃墟となっているのに、あなた方だけが板張りの家に住むべきときであろうか。今、あなたがたの現状をよく考えよ。・・」 自分が満たされたい、自分が恵まれたい。自分が受けたい。とする姿は小鳥の雛のようである。雛は、他にはお構いなく、ひたすら受けることしか考えない。 子供は受けることしか欲しないのとよく似ている。満たしてください・・でなく、すでに満たされたと信じて、注ぎだすことだ。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させる!」「そしてあなた方はキリストににあって〔現在、ただ今、この瞬間)満ち満ちている!」と聖書に書いてあるからです!アーメン! 得ようとするものはそれを失う・・と書いてあることも忘れてはならない。 「信じた私たちは安息にはいるのです」へブル4:3 このようなことを思い巡らしていたら、看護婦さんが血圧を測りに来た・・私の顔を見るなり、 「穏やかですね」・・そう声をかけられた。本当に内は穏やかな主の霊に満ちていました。深い平安とともに、静かに流れる主のいのちを感謝します! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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