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今真夜中。ふと主の御言葉に、目が覚めた。 「思い煩うな!」 と語られた。 まるで耳元で語られたかのようだった。 確かに、わたしの心の中で、あることが気になり、そのことで思い考えていることがあった。 ひとつのことについて、こうだったらどうしようかな?こうしてみたらどうだろう・・。 などと、考えていたのである。 考えているうちに、不思議とその問題が、私の思いの中でだんだん大きく膨らんできた。 そうしているうちに、頭の中が、一杯になってしまったのだ。 そうなってくると、そのことに対して、ないことまで思うようになっていく。 ひょっとしたら、こうなってしまうのではないか・・と恐れさえも覚えてきた。 主よ・・と御名を呼び求めた・・。自分の愚かさを思い、御名を呼ぶしかなかった。 眠りについた私の頭の中は、それでも思いがいっぱいだった。 そのような中で、主は 「思い煩うな!」 と語ってくださったのである。 それと同時に、 思い煩う。。ということは、本当に 思いが、患う。ことなんだな・・と感じた。 そして、もうひとつの御言葉。 「死者の中からよみがえったイエスキリストを、いつも思っていなさい。」 第二テモテ2:8 イエスキリストを思うこと、=御言葉を思うこと。 このお方が語られたことを、思い巡らすこと。 によって、実は、私たちの弱い心は、本当に守られるのだと気がついた。 私たちの中に流れる、いのちの流れは、実は、この思い煩う・・ということによって、せき止められてしまう。 心がきゅっと、かたくなになってしまうのである。 まさに、その思いは膨らんで、思いが患ってしまうのである。始めは小さな心配かもしれない。 そのことで、ふと思い巡らしていくことによって、それが次第に膨らんでいくのだ。 私は、あるひとつのことについて思い巡らし、次第に膨れ上がった不安な思いに、身をゆだねていた。まるで、膨らし粉のように、ひとつの思いわずらいが心に入ると、そのことについた考え始める。膨らし粉だから、どんどん膨らんでいくのである。 そんな私に、主は、 思い煩う、わたしの思いに対して、 まるで、「ストップ!」 と言われたかのようだった。 わたしは・思・い・を切り替え、御言葉を思い巡らした。イエスを思うこと、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝を持ってささげる祈りと願いによってあなた方の願い事を神に知っていただきなさい・・」ピリピ4:6 不思議と、あんなに、考えていたことが、小さく感じられた。 とど凍りそうだった流れが、ふと解けて、平安がおおった。 イエスを思うことは、こんなにも、わたしの思いを自由にし、平安で満たしてくれることであること。弱いがゆえに、イエスを思うことで、私たちは解放され、癒されるのである。 何か信仰の成長のためにしなければならないこと、クリスチャン・た・る・も・の、いつもイエスを思っていなさい!みたいな捉えかただったように思う。 NO! 私たちの思いが、イエスを思うことで、思いが守られ、内なるいのちが守られ、自由な流れの中に、平安の中に、私たちのいのちを生き生きとさせる力があるのである。 私たちの霊的な戦場、その最前線は、この思いであるということ。悪しき者は、小さな思い、不安な種のようなものを、あるいわ、人によっては、憎しみの種かもしれない。それをふと蒔いてくる。その小さな思いを、受け取り、今度は私自身が思い巡らしていくことで、次第に膨らませてしまう。本当にどんどん膨れ上がるのである。 イエスを思うことは、大きな盾を持つようなものである。 敵が矢を打ち込んできても、盾があるゆえに、安全なのである。 真夜中、御言葉が読みたくて、布団から出て、聖書を開いた。 「主は全てのことについて理解する力をあなた方に与えてくださる」 テモテ第二 2:7 思いについて教えてくださった主に栄光がありますように・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年12月10日 02時41分23秒
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