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聖歌260 「主よ いよいよ」
という聖歌は セーラー・F・アダムスという女性が作詞しています。 この歌は、よく葬儀などで歌われますが、わたしはこの歌が本当に好きでよく口ずさみます。 主に近づくのは、死のときだけではない。今、親しく主に近づく喜びが、イエスの血によって開かれたのですから! 実はこの賛美、邦訳では省略されているところがあるのです。 その訳を今日は、おすそ分けいたします 「目覚めている時、あなたを喜んで賛美します。 わたしの心を石にするほどの悲嘆ゆえに この石を立てて、ベテル(神を拝する場)とします。そして、私の悲しみのゆえに、わたしの神よ、もっと、もっと、あなたのみそばに行かせてください」 この夢を見たとき、ヤコブは石の枕をしていたので、その石を地面に立て、その場所を「ベテル」と名づけました。それにちなんで彼女は「心を石にするほどの悲嘆ゆえに、この場所が聖なるところになると歌っています。悲しみが彼女を神に近づけるのです。・・・・・・・・・セーラーは1848年43歳の若さで世を去りました。結核で死亡した姉の看病をし続けたことが彼女の命を縮めたのです。・・・(賛美歌・聖歌物語より抜粋) 悲しみが・・その場所が聖なる所、神を拝する場所になる・・と読んだ時、私の心は深い感動を覚えました。 死の向こうに復活の希望があるように、死の影の谷をすぎるような場が、神をあがめるベテル・・主に近づける。 キリスト者が求めるものは、きらびやかな栄光ではない。 キリストとともに、死にあずかることを求めることだと。 キリストが十字架につけられることが、栄光の時とイエスは語られました。本当に真っ直ぐ、十字架に向かわれたのです。 十字架の上で流されたその血によって神に近づく道を開かれたのです。 ベテル・・神を拝する場はこの血を通して大胆に神に近づくことが赦されたのです。 苦難を恐れず、わが石として、神を拝する場、聖なる場・・・。 ただ、ただ、アーメン!アーメン! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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