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私と主人はよく目を合わせて、お互い、言葉がなくても、にっこりと微笑みあいます。 一日に、何度もふと、目が合います。そのたびに、お互いにっこりとするのが、とても自然な行為になっています。 のろけているわけではありませんが、 毎日そうやってお互いを見ていると、ふとした微妙な心の動きさえ、主人には隠せません。 でも、そんな関係が、とても心地がよいのです。安心なのです。夫婦であることに喜びを感じる瞬間でもあります。 イエス様のまなざしも、実はとても心地がよい・・そう思うのです。 ある人は、神が見ている・・と聞くと、裁かれている、怖い・・など、悪いことはできない・・ などなどの印象を受ける方も見えるかもしれません。 でも、どれほどに神は私たちを愛してくださっているのか、そのまなざしは、母が子をいつくしむようなまなざしで見つめてくださっているのだということを感じます。 そして、毎日毎日、このお方のまなざしの中に、瞳のように守られ、生かされているのが、私たちなのではないでしょうか。 deut 32:10 主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。 deut 32:11 わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。 deut 32:12 ただ主だけでこれを導き、 まぶたはひとみを守るために与えられています。 意識していなくとも、瞬きをし、ひとみを保護するのです。 神はまぶたのように、私たちをいつくしみ、見守り、生かしてくださっているのです。 神のまなざしに触れた人々が、聖書には満ちています。その一人一人が、いのちの中を歩み、証しているのです 聖書の人物だけではなく、今日、私や、あなたにも変わらず注がれている神のまなざしの前で、安らぎ、休み、歩んでゆきたいですね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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