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[幻がなければ、民はほしいままにふるまう。] 箴言29:18 幻、とはいったいなんでしょうか。 何か不思議な事、また、夢?それとも、これから進むべき道、成すべきビジョン? 幻は、もとのヘブル語では「ハーゾーン」というそうで、「見る」という意味があると akaba23さんのブログの中に書かれてありました。 このところを読んだ時、「見る」という言葉から見えてくるもの、 私達クリスチャンが、見るべきお方は、イエス・キリストご自身です。 そして、この、ほしいままにふるまうという意味が、本来「自分の中にうずくまる、こもる」という意味だそうです そのように、「幻がなければ、民はほしいままに振舞う」という言葉の意味が見えてきま す。 人が本来、見つめるべき存在である、まことの神から目を離してしまうなら、自分の中に=肉の中にうずくまってしまうこと、肉に頼り、自らの内にこもってしまう事を言っているという事が見えてきます。 まことに、肉によって生きることは、自分の欲するままに生きることそのものです。 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」 へブル12:2 イエスご自身という見つめるべきお方の中に生きることによって、たとい行き先が見えず、どこに行くのかわからない・・としても、このお方の中で安息し、従って行くときに、内なるお方がすべてを導き、ご自身のいのちを現してくださる・・そう思います。 そして、内なるいのち、復活のイエスを見続けるとき、このいのちは私の内で生きるいのちとなって、黙ってうずくまっている事などできません。 イエスのご性質は、父なる神がなさる事を見て、ご自分も働かれる、そのようなお方だからです。私達もこのお方と一つにされたのですから、喜びに溢れて、黙っている事は出来ないのです!!ハレルヤ! まことのビジョンとは、イエスご自身! 「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」 第一コリント2:2 今あまりにも、クリスチャンが、ビジョンという言葉のもとに、何かを目標を掲げ、何かを行う事、または方法論に、目が向けられてしまっているように思います。 パウロが言った言葉、「イエスキリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心した」・・この決意にとどまることです。 なぜなら、神の栄光、神の業を現すために、私達がしなければならない事は、遣わされた方を信じる事、この一点だからです。 目を覚まして、まことの幻、いえ、まことにリアリティーである、イエス・キリストを見続けようではありませんか!! ↑クイックしてくださいね(*⌒ー⌒) にこっ♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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