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「それでイエスも、自分の血で民を聖とするため、門の外で苦難を受けた。 だから、{私たちも}彼の{受けた}侮辱を{身に}負い、宿営の外、彼のもとに出て行こう。 私たちはここには{いつまでも}存続する都をもっておらず、来るべき{都}を熱望しているのだから。 {それで}彼を通して、賛美の生贄、つまり彼の名を告白する唇の実を、いつも神に捧げていよう。 善行と分かち合いを忘れるな。このような生贄が神に喜ばれるのだから。」 へブル13:12~16
賛美したくない時に賛美する事が、生贄だ、とよく聞きます。 信仰によって賛美する、ダビデが、自分の魂に向かって、「わがたましいよ、主をほめたたえよ」と歌っているのを見るとき、自分の思いは脇において、主を賛美する事を選び取る事は、私たちに力を与えます。 しかし、ここに書かれたまことの賛美とは、 ・・それはイエスが門の外で苦難を受けたように、・・そのように私たちも彼の侮辱を身に負い、宿営の外、彼のもとに出て行くことです。 キリストのために負う苦難、あざけり、嘲笑を身に負い、私たちはキリストのもとへと出て行き、さらに彼を通して、彼の名を告白する、それがまことの賛美の生贄。 確かに、中国のような迫害は日本では考えられない。しかし、真理は人々を切り分け、光を投じるのです。 「事実、神の言葉は生きていて活力があり、あらゆる諸刃の剣にまさって切れ味があり、・霊と魂を、関節と骨髄を切り分けるほどに刺し貫くものであり、心の思いと考えを見分けることができる」 へブル4:12 イエスが語る言葉、まさに、この言葉とおりのものでした。 真理、まさに御言葉が人を切り分け、思いが判別されます。 真理が語られるところでは、まるで篩いにかけられたように、人々の反応は分かれます。 いのちに至る人にとっては解放であるのに対し、そうでない人々にとっては、 明るみに出される事を恐れて、光の方に決してこようとはしません。もちろん、そのような自覚さえ感じる事はありません。 今日、このような真理が一体どれほどの教会で語られているでしょうか 人受けすることに心を配られたり、何でも受容することが理想の教会?、それが福音なのでしょうか? そのままのあなたでいい、ありのままのあなたでいい、というキャッチフレーズがキリスト教の合言葉のようになっています。 そのままのあなたではいけないので、キリストは十字架にかかられたのです。 そのままのあなたでいい、ありのままのあなたでいいという言葉は、いつの間にか一人歩きし、それが福音かのように語られています。 そのままのあなた、ありのままのあなたでいいという言葉は、キリストの死に継ぎ合わされながら、福音によって変えられていく歩みを阻害してしまいます。 真理の言葉は、罪について、義について、さばきについて世にその誤りを認めさせるのです。
真理は信じる者にとっては、自由を得させる力ですが、それを拒絶するものにとっては、聞くに堪えない言葉なのです。 なぜなら、 「自然的{地上的な}な人間は、神の霊のことがらを受け容れない。なぜなら、それはその人には愚かさだからであり、それをその人は認識する事ができないからである」 コリント第一2:14 パウロは 「私たちはすべてにおいて苦しめられながらも、窮地に追い込まれてはおらず、途方にくれながらも、絶望してはおらず、迫害されながらも、見棄てられてはおらず、投げ倒されながらも、滅ぼされてはおらず、常に、イエスの殺害をこのからだに負って歩き回っている。それはイエスのいのちもまた、わたしたちのこのからだにおいて、明らかにされるためである。」 コリント第二4:8~ パウロは真理である方を信じて語ったがゆえに、このようにキリストの十字架を身に負っている事を証しています。 そのような、まさに、生きることはキリスト、死ぬ事もまた益です。と語ったパウロのあゆみそのものが、まことの賛美の生贄なのではないかと感じさせられるのです。
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最終更新日
2008年01月11日 07時47分12秒
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