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「また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」
マタイ19: 29 御名のために捨てること、この言葉のもつ意味が「厳しさ」を表しているとばかり思ってきた。 しかし、そうではなかった。むしろ、主の深い愛が流れていることをふと感じさせられた。 私たちは、両親から様々なものを受けて成長してきました。良い経験もあれば、苦い経験も含め、本当に大きな影響を受けて、今があります。先日、秋葉原の無差別殺人を犯した犯人がネット上で、自分の不運さを両親の責任とぶつけていたことは、記憶に新しいところです。自分の両親に認められずに育った人は決して彼だけではありません。多くの人が感じてきたことであり、認められたいという思いは、たとい成人した後でさえ、いえ、いくつ歳を重ねていこうが、本人の思いの中でくすぶり続けているのです。仕事をしていようが、家族といようが、埋められていない穴はその人自身の考え方や行動を縛っていることが多いのです。 それだけにとどまらず、両親や兄弟との関係のなかで経験してきたあらゆることが、いろんな感情に影響し、気持ちの上でいかに本人を縛っているかがわかります。 ゆえに、主イエスがなぜ、父、母、兄弟を捨てるように語られたか、意味が迫ってくるのです。人である以上、完全な親は存在しません。 良いものも悪いものもひっくるめて、そこから受けてきた影響は、はかりしれず、肉にある生き方そのものを受け継いできました。しかし、肉はなんの益ももたらさないこと、いのちの与える自由さとはなんとかけ離れたものであるでしょう。 真理はあなたがたを自由にする、真理なるお方は、私たちを縛るあらゆるものから自由としてくださるため、内にきてくださいました。神の愛を知ることを妨げるあらゆるものから自由を与えるために、今日という日も内におられるのです。 捨てた者、手放した者は、その幾倍もをうけるのです。何をでしょう。いのちです。あの世に行ってからではありません。今、真理なるお方に満ち溢れさせてくださるのです。 捨てることは失うことではなく、むしろ、捨てることによって得るのです。真理は私たちを自由にし、私たちの内に与えられたいのちは真に家族、両親を愛する者としてくださると信じます。 私たちは、私たちを縛る肉の生き方から、日々離れ、日々手放し、日々捨てて、主の中で自由を味わうのです お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年06月29日 01時00分18秒
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