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今日は、本来ならE姉妹とともに3人で交わる予定でしたが、残念、、、でも、交わりはいつも続いているので、その場に居ることができなくても、主にあって、共にいる。リアルな交わりも主が最善の時を下さることを、今から楽しみに期待しつつです。 リアルに交わってみたい方々は本当にあちこちにいらっしゃる。主がどのような時を備えてくださるか、サプライズを楽しみにしつつ・・かな?ワクワクです。+゜・。(*´∀`*)・゜+。+
「闇の子供たち」をY姉妹と観賞後、交わりへ。 Y姉妹との交わりは、いつも新鮮な刺激を受ける。彼女はとても自然体。交わっているとふと、山の自然の中に入り、新鮮な空気をいっぱい吸ったような感覚になる。 私自身かつて、キリスト教という箱の中に、どっぷりはまっていた自分がいた。主は、宗教からいのちへ、キリスト教から主ご自身へ。と移してくださったが、無意識的にも、その箱的な考えが頭をもたげようとすることがある。そのことに気ずきをかなった時に与えられ、ますます自由の中へと導かれている、まだまだ途上。 Y姉妹と交わる時、いつも感じることは、自然さの中にある自由を満喫している姿。日々いろんな事があっても、そこで主を楽しんでいる。えらい時には、えらさの中で、つらい時にもつらさの中で。 そして、主の子供としての確かな確信の中にいる。それは「信じている」という表現ではない。「信じている」という表現は,まだ見ていない事柄に関する言葉であるのに対して、彼女は、「ある」ということをはっきりと語る。 「ここのいるよ!」と。そして、自分は「神の子供」。で、・あ・る・・・、砕けた言い方で言えば、「私は父(御父)のこどもなの。」とはっきりと笑顔で語る。 白々しい言い方でもなく、多分そう・・と自分に言い聞かせるように語るでもない。今見ているものを話すように、それはまるで、~さんちの子供・・と普通に当たり前のように話す感覚と同じ。 作られた言葉ではない、自然に話す言葉は、ストンッと心に入ってくる。 彼女の屈託のない笑顔から、主が流れてきて、ホッとするのです。 数々の死を通り抜けてきた、いのちの中にある自由を味わって楽しんでいる。そして、かつての痛みや傷は、そこからにじみ出る神の憐れみの器へとますます変えられている。生ける主の御手を感じて励ましを受けます。 誰かにメッセージされたわけでもなく、彼女は主から直接それを受け取って歩んでいる。 型にはまったクリスチャン的な考え、歩みは彼女の中にはなにもない。だから、彼女の生活の中に生きている主との関係がすべて。また逆に、そうでないもの、不自然さの中から出てくるもの対しては、ものすごく敏感に感じ取る。 父と子の関係を楽しむことが、自然なこととして生活の中に流れている。関係の中に生きていると、父の思い、喜びや悲しみが自然と伝わってくることを感じると証してくださった。
キリスト教という箱・・ということを書いたけど、これはキリスト教的なことだけに限ったことでは決してない。 その人の内でその人自身を縛るもの全般だと感じる。主はそれらの束縛から自由を与え、子である喜びに生きる自由へと招いてくださっているのである。
自然さの中にある彼女の存在そのものが、さらに私の中にある不自然さを浮かび上がらせる。そんなことを言えば、「かいかぶりすぎだよ」と笑われてしまうけど、流れてくるいのちは、本人にはまったくの自覚がない。・・ それでOK。すべては内なるお方が溢れ出てくることから、お互いの内におられるキリストを味わい、豊かに飲み、食べる。 今日は満腹になって帰ってきた。主にハレルヤ~!!!!
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最終更新日
2008年08月27日 00時26分57秒
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