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イエスの喜びと満足のために☆

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2008年09月23日
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             miyabiokurimonos.jpg

 

      ルイジアナ州バトンルージュに住むビル・チャドウィックは、赦す事と弁解を受入れて免責することの違いを彼の息子、マイケルの死についての本にはっきり書いている。

ビルはマイケルを殺した少年を大目に見てやることなど到底できず、正しい裁きが下されるのを見ないではいられないと感じていた。しかし、すべてが終わった後で、裁判は自分が求めていた満足や平安を得ることはできないと気づいていた。

 

 「 私の21歳の息子マイケルは、1993年10月23日に自動車の衝突事故で即死した。後部座席にいた彼の親友も亡くなった。泥酔状態で猛スピードを出していた相手の運転手側は、車のミラーが壊れただけだった。彼は自動車で2人を殺害した容疑者で逮捕された。マイケルからは微量のアルコールが検出されただけに過ぎず、親友からは検出されなかった。

 法の裁きは非常にゆっくりと行われた。裁判では、被告に不利な事実を発見するのに1年以上かかった。私たちは傍聴を重ねたが、そのつど裁判は延期された。被告側の弁護士は、血中アルコール検査の結果に信用性がないとまで言い出したが、それは受入れられなかった。最終的に、被告は有罪になり、被害者1人について6年の懲役が、2人分同時に科せられた。

 軍の基礎訓練キャンプ方式の矯正課程が彼のためになるのではないかと、私たちは保護観察所に提案した。彼を痛めつけようと思ったからではなく、自分のしたことを償ってもらう必要があると信じたからだ。。だが、わたしたちは彼の母親から、非常に不愉快な手紙を受け取った。私たちのせいで息子に最長の刑が科せられたというのだ。彼女は、死んだのは自分の息子で運転していたのがマイケルだったら、自分は憎んだりしないだろうと書いてきた。私は彼女の息子が本当に死ななければ、そのとき彼女がどうするかはいえないはずだ、と伝えた。

 結局、彼女の息子は軍の基礎訓練キァンプに6ヶ月間入り、残りの6年間の懲役は免除された。6ヶ月経って彼女の息子は家に帰ったが、私たちの息子は戻ってこなかった。

 私は運転していた者が処罰を受けたら状況が変わると信じていたのだと思う。「区切りがつく」というやつだ。誰か責めるべき人がいるなら問題は解決できると私たちは考える。それは事件に何かの意味を見出せれば、あるいは、被害者が少しでも正義に基づいた結果を見ることができれば、苦痛は最終的になくなるだろうという考えにかなり似ている。私は、マイケルが死んでから数年間で、こうした「区切り」を待ち望んでいる遺族たちの話を数え切れないほど読んだ。オーブラ・ウィンフリーのトーク番組で、犯人を殺すことで救いが得られるかのごとく死刑を叫び求める遺族たちを見たこともあった。

 もちろん、私は相手に対して怒りを持っていた。しかし、同時に、マイケルにも腹を立てていた。つまり、彼はあの夜間違った決断を下し、その結果いのちを危険にさらしたのだ。わたしは自分の気持ちを理解するために、この怒りを受け止めなければならなかった。しかし、判決後も私に「区切り」は訪れなった。心に開いた穴の大きさは判決前も判決後も変わらず、それを埋めるものは何もないことに気づいた。

 数ヵ月後、私は、相手の運転手を許すことができるまで、私の求めている「区切り」は訪れないのだと悟った。赦しは、責任を免除することではない。運転手は今でもマイケルの死の責任を負い続けているが、この事件を終わりにするためには、私が彼を赦さなければならなかった。どんなに重たい刑罰も、恨みを清算することはできない。仕返しをせずに、赦したいと思わなければいけないのだ。そしてこの赦しの道は、実は運転手には関わりのない、 私自身の問題だった。それはわたしが通らなければならない道だった。彼が何をしたにしても、私が変わらなければならなかった。

 赦しへの道のりは長く、苦しかった。私が赦す相手は運転手だけではなかった。マイケルや、(この事故が起こるのを放っておいた)神や、自分自身をも赦さなければならなかった。結局、自分自身を赦すことが最も難しかった。私自身、アルコールを飲んだときに、車でマイケルを送ったことが何度もあったのだから。しかし、自分自身を赦すことが私の赦しの鍵だった。他の人々に対する怒りは、ただ私自身の恐れが外に向けられたに過ぎなかったのだ。私は自分自身を直視しなくてもいいように自分自身の罪を他の人たち、つまり運転手、裁判官、神、マイケルなどに転嫁していた。事件の苦しみに私自身も関わっていたことに気づいて初めて、わたしの考えは変わった。

 私が学んだことはこうだ。

 私たちが求めている「区切り」は赦すことで手に入る。区切りをつけて終わらせることができるのは自分だけだ。なぜなら赦す力は自分の外にあるのではなく、自分自身の心の中にあるからだ。

 マイケルの父親は、親にとってもっとも辛いことを学んだ。しかし、それはどんな境遇にあっても、私たちがみな学ぶべきものだ。自分を傷つけた者に対して赦す心を持たなければ、報復を主張することがどんなに「正しい」としても、平安はこない。

 報復を重んじる社会ではこうした考えは受入れられない。それどころか、人々は裁判でくだされる判決だけでは満足できなくなってきている。自分も報復の中で個人的に役割を果たしたいのだ。アメリカのいくつかの州では、家族を殺された人々には死刑執行に立ち会う権利さえ与えている。それでもなお、被害者の家族は彼らの求めている平安をまったく得られていないようだ。自分が傷つけられたのと同じ暴力で他人が傷つけられるのを見たいという思いは、満足にいたることはない。報復を追及して自分たちの傷を癒そうとする人々は、幻想と怒りの中に取り残されてしまう。

 赦すことは多めに見ることではない。場合によっては、「赦して忘れること」は不可能なだけでなく、道義に反する。子供のことを忘れるなんて、できるはずがない。苦痛、憤慨、そして怒りはもっともなことだし、多分必要なことですらある。しかし、こうした気持ちの中から最終的には、和解を切望する気持ちが起こされなければならないのだ。    

                 






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最終更新日  2008年09月23日 22時51分31秒
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