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「主よ、お心煩いなさいませんように。なぜなら、私は自分の屋根の下にあなたをお迎えする値打ちはございません。そのために、みもとに私自ら参るのもはばかりました。」 むしろ、言葉で仰ってください。そして私の僕が癒されますように。というのも、私も一つの権能の下に据えられている人間で、その私の下にもなお兵士たちが下ります。そして私がある者に、「行け」といえば彼は行き、他の者に「来い」といえば彼は来、また」私の奴隷に「これをせよ」と言えば彼はそれをします」 イエスはこれを聞いて百人隊長に驚き、自分に従っている群衆の方に振り向いて言った。 「わたしはあなたたちに言う。わたしはイスラエルの中で、これほどの信を見出したことはない。」 そこで、送り出された人々が家に帰ってみると、例の僕は健やかになっているのがわかった。 ルカ7:6~10
百人隊長の信仰を見る時、 「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人はなんと幸いでしょう」ルカ1:45 の御言葉を思い起こします。 でも、今回、深く心を捉えたのは、 「私は自分の屋根の下にあなたをお迎えする値打ちはございません。そのため、みもとに私自ら参るのもはばかりました。」 という言葉です。当時の話をするとするなら、ユダヤ人は異邦人を家に入れるなど、考えられない行為だったそうですが、(汚れるという理由で。)だからそのように言ったのだ・・と考えるのは普通かもしれません。 しかし、この部分を直訳すれば、 「自分の屋根の下にあなたが入る値打ちはない」と告白しているのです。 自分の屋根の下、私たちの内側に主が来て下さる、そんな値打ちがないものであると、百人隊長の言葉の中に秘められた真実を見ます。 百人隊長という自分のエリートさや、ユダヤ人にかなえておやりになるふさわしい人と言われていても、何かの資格や業に拠ってではない。神の前に失われた一人の罪深い人間としての自覚、それはあのペテロの言葉 「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」 ルカ5:8 の言葉と重なって見えてくるのです。 愛する僕が死に瀕している、いても立ってもいられない切羽詰った状況の中で、自分が走っていって、主に直接叫びたかったに違いないのです。しかし、御もとに自ら参るのもはばかる・・これは本来の私たちの立場だったのです。 主イエスが流してくださった血潮ゆえに、まことの聖所に入り、恵みの座に近づいて、大胆に求めることを赦してくださった。だから求めることができるのです。 百人隊長の信仰に驚かれたのは、ただお言葉に対する信だけではない。 主をお入れするようなそんな資格は自分には本来なにもないものであるという深い自覚と、まして自ら願う、そんな資格さえもない、・・・主の購いなしに・・。というそんな言葉が秘められているようにさえ思います。 自らの本来の姿を知ることは、主の光なくして、知ることはできません。 百人隊長は,イエスが家に近づいてきたとき,そのような者ではないという深い自覚が与えられたのではないでしょうか。イエスが近づいてこられるとき、私たちは本来の自分の貧しさに気づきます。そして、ただ、お言葉=イエスご自身だけが救いであることに気づくのです。自分の真の姿に気づく時、ただ主だけ(お言葉)を頂かせてくださいと、百人隊長のように求めることができるのではないでしょうか。
「主よ、わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。 ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、お言葉をいただかせてください。そうすれば、私の僕は必ず癒されます。」 アーメン・・。
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最終更新日
2008年10月17日 23時41分04秒
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