カテゴリ:カテゴリ未分類
主人の疑問 教会の人や、愛する方々が、病や困難の中に次々おかれていることに対して 神様はなぜ、守ってくれないのか、そういうものから守ってくれるのが神様じゃないのか。と怒りにも似た感情と疑問を抱いている。 「あなたは守られて、今こうしてここにいるのでは?良い時だけ、俺様のおかげで、状況が悪くなれば神様のせい?それもおかしいよね?」 と、穏やかに答え、それ以上はあえて何も言わなかった。 私自身が答えることではなく、主が主人の内に光を与え、そして知るのでなければ本当の納得などありえないからだ。 何が間違っていて、何が正しい、その物差しで主人を量っているときは、私自身も自由じゃなかった。 むしろ、神に対して、怒りでもいい、疑問でもいい、主人自身が神のみ前にぶつけてゆくことだ。 神に対して持つ疑問、それがどんな形にしろ、神への意識がなければ、そんなことすら抱かない。 いまは、怒りであろうが、疑問であろうが、その感情をしっかりと通り抜けることなのではないだろうかとさえ思う。しっかりと消化されたものだけが、体にとって血となり肉となるのと同じ。 主人はすでに主のもの。そこに安息し、どんな回り道の中にさえ、主の光は主人から離れることがなく、主が一番よいことをしてくださる、そこにとどまることだけだと感じる。 主人が持つ感情や思いを否定するどころか、その思いを持っている主人を見てなんだかとても嬉しく感じてしまう。 しっかりと怒って欲しい、しっかりと疑問に感じて欲しい、神は必ずお答えになる神だからだ。 ハレルヤ! ☆彡*ー*ー*★彡*ー*ー*☆彡*ー*ー*★彡 ちなみに今日は、午後3時半から、娘が耳鼻科で生体検査。局所麻酔をして、腫れているアデノイドから組織をとる。娘はドキドキ。喉の奥へ注射が入るというだけでドキドキなのだ。平安の内に守られますように・・・。感謝します。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|
|