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今日は朝からコトコトとおでんを煮た。赤味噌をつけて食べるのは名古屋流かしら? 味のしみた大根は、たまりませんね♪+゜・。(*´∀`*)・゜+。+
あれから我が家は、台風が過ぎ去った後のように、さわやかな風が吹いています。 大きな所を通らされたことで、それに勝る主の御手も知る。主のなさることの素晴らしさに感謝です。 今回、自分の内にある原罪に光が当てられたことは、私にとって幸せなことでした。 自分のうちになんら希望もないこと、それが頭の部分ではなく、試練というスコップを使って掘り起こし、光を当ててくださった主の恵みと愛を感謝します。 主を知ることが、御霊によるのでなければ知ることができないのと同じように、もろもろの罪も、自分の内深くに根をはっている原罪も、それにさえ、気づくことすらできない者、 そんなことすらも知り得ない者だということをとても、とても感じたのです。 主イエスなしにひと時もすごすことができない・・この賛美を今までも歌ってきましたが、それさえも何の自覚もなしに歌っていたのだと唖然としました。 主の光のもとでのみ、真の自分を知り、その自分がすでにキリストと共に死んでいるということは、なんという福音でしょう。 パウロの、「しかし、私たちの主イエス・キリストをとおして、神に感謝あれ。」 (ローマ7:25) の御言葉に心からアーメンと叫びたいのです。 御言葉の意味が染み渡るように、心にこだまする。 なんという恩寵。なんという恵み。 「主よ。私はあなたのさばきが正しいこと、 あなたが真実をもって私を悩まされたことを知っています。」(詩篇119:75) このお言葉通りです。
「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。 蜜よりも私の口に甘いのです。」 (詩篇119:103) 甘さを知るということが、ただ単に甘いと告白しているのではなく、 苦さをも知っているのでなくて、どうして心からの告白になるでしょう。 罪のもたらす苦さ、苦難の苦さを真に知り、主の言葉は蜜より、そうです、蜜の甘さとは比べることができないほどに、さらに深い甘さがあると告白しているのです。 主の測り知れない恵み、その深さを知ることを通して、私たちは喜びに与りますが、 ・・その深さ、大きさ、広さを知る、知るための測りを人生の中に散りばめてくださる。 たとえ自らの愚かさから発したことでさえ、この方の中にあるなら、主を知ることができる機会としてくださる。 罪の大きさに打ち震えていたマクダラのマリアも、主イエスの赦しの大きさを知りました 「この女のあまたの罪は(もう)赦されている。(それは)この女が多く愛したことから(わかる)少ししか赦されない者は少ししか愛さないものだ」 (ルカ7:47)岩波訳 この方の中にある、全てのことをとおしてでさえ、この方を深く知る機会とされるとは・・驚くべき恵みです。ハレルヤ!
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