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「ことばは人となって・・・」 この御言葉になんと多くを教えられることでしょう。 わたしたちに神の愛が分かったのは、受肉されたことばが死を通して、私たちの内に生み出されたいのちとなったこと 神のメッセージそのものであるイエスが与えられたことによって、神を知る イエスの話される言葉一つ一つが権威ある者のように人々の内に語られたのは、イエス様だからとか、権威ある者だったからという単純なことではなく、 まさに、受肉された言葉、神の言葉そのものがイエスご自身であり、語ることばとイエスご自身がまったく一つ、いのちの内側深く溶け合わされた言葉、御父から受けたいのちがイエスのいのちそのものであり、全くの従順の内に御父からうけとられたことばを語られていた・・・ イエスが人として歩まれた33年間の歩みで、人として多くの苦しみを通して従順を学ばれたことは、驚くべきことです。人として日々十字架負うことを通し、死といのちの経験の内に歩まれました。日々、負って歩まれた十字架は、イエスが最後に向かわれる十字架への歩みそのものでした。そして死を通して生み出されるいのちを、人としてのご自身の生涯の歩みの中で学ばれたことをどうして疑うことができましょう。 まさにその生涯を通して経験され、受肉された言葉、御父との真実な交わりの内にはぐくまれたいのちとしての言葉が、イエスの内にはちきれんばかりに満ち満ちていたのです。 その言葉には力があり、真理がともなっていました。 イエス様だから。。と、どんなにわたしたちは片付けてきたでしょうか。 私たちの語る言葉が表すいのち、その足跡を人として残してくださったのです。 十字架を通され、死からいのちへ移された歩みの内に、味わわれ、経験された神の言葉、受肉された言葉は、わたしの内でいのちとなり、御霊による息吹を伴って、その言葉はもはや人々に教えなければならないような言葉としてではなく、あなたが何者(神に属する者、イエスにあって生きている者)であるかを見るものとして証されてゆきます。 「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学 」(へブル5:8)ばれたように、艱難辛苦はイエスの従順を学ぶ恵み、さらに真実な神の言葉を経験によって知り、いのちの言葉が、私たちのうちに受肉されていく歩み、さらに、死を通していのちが生み出されてゆくいのちの連鎖への招き、ただ主ご自身が導いてくださる。明け渡された歩みは、主がすべての主権を持って導いてくださることを確かに知るのです。 ハレルヤ!
「神は油注がれた器たちに真理を経験させて、真理について行かせる」 T. オースチン-スパークス お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年12月09日 11時42分48秒
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