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すべてのことは、彼を介して生じた。彼をさしおいては、なに一つ生じなかった。 彼において生じたことは生命(いのち)であり、その生命(いのち)は人々の光であった。 ヨハネ1:3、4
この御言葉が指し示している真理を神によって教えられる人は幸いです。 いのちを介して生じるいのちの原則、それは十字架の死と復活のいのちであり、キリストのものではない命は主イエスの墓の中に落ち、私のものである肉はすべて死に渡されなければなりません。死ですから、私たちは全く停止したようになるでしょう。自分が持っていると思っているもの、自・分・の信仰も、熱心も、情熱も、祈りでさえも、またあらゆるキリストについての知っていたと思っている教理にも、良いと思っているこれらのものがすべて無力の中に沈み、全く枯れ尽きてしまうのをあなたは感じることでしょう。死はことごとくあなた自身を焼き尽くし、灰になり、望みは尽きたと思われるでしょう。それはまるでエゼキエル書の枯れた骨が自分自身であることを神の光の下で知るのです。 「私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる」 エゼキエル37:11 「わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」というあのイエスの祈りに継ぎ合わされて、まさに死に下るのです。 それは死者同然、、自らによっては生きることさえできないものであることを知リ、ただ神の憐れみを待ち望むより他、何もないものであることを知るのです。 彼をさしおいては何一つ生じない、その実際を、経験として知るのです。 彼ご自身がいのちであり、すべてのことが彼を介して生じなければならないことを知るのです。十字架を通される時、主が死に至るまで従順であられたように、そのような彼の死と一つにされるのです。 「キリストとともに死んだの・な・ら・、彼とともに生きるようになる」・・ 彼とともにいのちへと移された復活のいのちの証は、人々の光となって流れてきます。 しかし、彼とともに死に切れていない、生焼けのいのちは、はじめそれがよい証に見えても、やがて臭うようになるのです。いのちの感覚は同じ主のいのちの中に生かされている兄弟姉妹にとって、生焼けの証が違和感として伝わります。 彼を介するいのちの原則は,彼のように徹底的に死に下ることです。 死は美しさも何の見栄えも、人をひきつけるものさえ何もない・・イエスはそのような死を通られたということです。
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