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久恒啓一

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まずは第一報を記しておく。
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仙台近代文学館(井上ひさし館長)は、年間を通して質の高い企画展を催すので、いつも楽しみにしている。私の自宅からは車で15分の距離にあってとても便利だ。車で通る道すがら新しい企画展のポスターをよく眺めている。今まで宮澤賢治、与謝野寛・晶子、佐藤鬼房などの企画展を訪問している。
高村光太郎・智恵子展が、4月15日から始まった。高村光太郎(1883-1956年)と3つ下のその妻・智恵子は、中学生から高校生の時に親しんだ懐かしい名前である。今年は光太郎没後50年、智恵子生誕120年の年の節目の年にあたるのだそうだ。

中学生・高校生の頃に読んだ記憶のある詩が懐かしい。

「僕の前に道はない。
 僕の後ろに道はできる」で始まる「道程」。

「あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川。」で始まる「樹下の二人」

「智恵子は東京に空が無いといふ、
 ほんとの空が見たいといふ。」で始まる「あどけない話」

「そんなにもあなたはレモンを待ってゐた
 かなしくも白くあかるい死の床で
 わたしの手からとった一つのレモンを
 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ」で始まる「レモン哀歌」、、、。

木彫師からのちに東京美術学校の教授をつとめた高村光雲の長男として生れた光太郎は、幼い頃から木彫に親しみ、家業を継ぐつもろで育っていった。そして14歳で東京美術学校に入学し本格的に彫刻を学ぶ。一方で詩人的資質に富む光太郎は俳句たや短歌にも目覚めていく。17歳の時には与謝野鉄幹の新誌社に参加し、早熟の才能を開花させていく。19歳で美校を卒業した光太郎は、フランスの名彫刻家・ロダンの「考える人」の図版に衝撃を受ける。23歳ニューヨーク、24歳ロンドン、25歳パリ、26歳イタリアと、美術・音楽・文学・演劇とあらゆる西欧文化を吸収する。そして28歳の時に、運命の人・長沼智恵子と会う。智恵子は、平塚雷鳥の雑誌「青踏」の表紙を描くなどの活動をしていた新しい女であった。智恵子の熱烈な求愛に動かされ光太郎も強く惹かれていく。

智恵子も才媛だった。いくつかの言葉が目についた。

「貧しく、飾らず、単純であれ
  ---生活の倦怠を如何にして救ふか--」(大正12年9月号「女性」)には、

「必要以外何物も有たないこと
 (或る程度の必要をも満たされなくても差支えないこと)=貧乏なこと。
 本能の声を無視しないこと。
 どんな場合でも外的な理由に魂を屈しないこと
 赤裸なこと。」とある。

「棄権--総選挙に誰を選ぶか?」(大正13年5月号)には「リンカーンのやうな政治家を選びませう」との論陣を張っている。

光太郎の詩からは智恵子への思慕の熱情が感じられるが、そういう幸せな状況の中で、なぜ智恵子は狂ったのだろうか。智恵子の評伝小説を書いた津村節子が、その秘密を語っている。病弱だった智恵子には、弟妹の問題、心の支えであった実家の崩壊など様々なことがらが悩ませる。しかし、「目の前にそそり立つ巌のような光太郎の存在が、彼女の心を圧していた」、そして「しかし極めて男性的な光太郎は智恵子の懊悩」に気がつかなかった。

光太郎の「山麓の2人」という詩には、そういう智恵子と光太郎の姿が垣間見える。
 「半ば狂える妻は草を敷いて座し
  わたくしの手に重くもたれて
  泣きやまぬ童女のやうに慟哭する
   --わたしもぢき駄目になる」

その智恵子は光太郎が55歳の時に没するが、智恵子はそのときでも20代にしか見えなかったという。



光太郎は、心に残る詩を多く書いている。何故詩を書くのか。本人の言葉があった。

「私は何を措いても彫刻家である。

 私は自分の彫刻を護るために詩を書いてゐるのである。自分の彫刻を純粋あらしめるため、彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐため、彫刻を文学から独立せしめるために、詩を書くのである。」

晩年の光太郎の大きな写真が飾ってあった。べっ甲の丸い眼鏡をかけた面の長い立派な顔である。シャツの襟は喉もとまできちんととめて優しく微笑んでいる。

入り口にの「光雲の首」(1911年9には人間の存在感の重さに深い印象を受けた。

教科書にも載っていた「手」という作品は、仏像の手印の造形に似た、大きなブロンズである。凄い迫力で見る者に迫ってくる。






Last updated  2006/04/19 04:53:10 PM
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