3355554 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

久恒啓一

久恒啓一

Comments

日本古典文学研究家@ Re:「たたら製鉄 技と精神(こころ)---誠実は美鋼を生む」(07/30) 日立金属さんプロテリアルに名前が変わり…
山陰中国地方サムライ@ Re:新著「遅咲き偉人伝-人生後半に輝いた日本人」の見本が届く(12/04) ルパン三世のマモーの正体。それはプロテ…
プロの魂たたら山陰サムライ@ Re:「たたら製鉄 技と精神(こころ)---誠実は美鋼を生む」(07/30) ルパン三世のマモーの正体。それはプロテ…
坂東太郎9422@ ノーベル賞(10/08) 「株式会社Caloria代表取締役社長 管理栄…
一町民@ Re:「男爵いも」--川田龍吉男爵の55歳からの大仕事(03/30) 娘は、函館・湯川のトラピスチヌ修道院に…

Freepage List

Category

Archives

2024/04
2024/03
2024/02
2024/01
2023/12
2010/06/06
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
今日は、鎌倉の人物記念館を攻める。


* 鎌倉市川喜多映画記念館。

2010 年4月にオープンした新しい記念館。ヨーロッパ映画の輸入と日本映画の海外への輸出を仕事にした夫妻を記念して建てられた記念館だった。

川喜多長政(1903年生まれ)は、府中四中、北京大学を経て、東ドイツに留学。東洋と西洋の和合を目指し東和商事を設立し、ヨーロッパ映画の輸入を始める。この会社が東宝・東和になり社長、会長を歴任する。

妻の川喜多かしこ(1908年生まれ)は、「制服の処女」で大ヒットを飛ばし、以後「会議は踊る」「巴里祭」「天井桟敷の人々」などを日本に紹介する。日本映画を海外に紹介することにも尽力する。「羅生門はベネチア国際映画祭で金獅子賞をとった。映画祭の審査員は26回に及んでいる。

この夫婦は、夫は勲二等、妻は勲三等と勲章をもらっている。

48席の気持ちのいいミニシアターで夫妻を紹介する映画を観る。関係した映画祭は、カンヌ、ベルリン、クラコフ、ムスクワ、ベネチア、サンパウロ、ハワイ、プサン、、、。交流のあった映画人は、チャプリン、ドヌーブ、黒沢明、淀川長治、尾上梅幸、大島渚、アラン・ドロン、原節子、、、。

かしこは、「徹子の部屋」で、師から「ビジョンを持て」「女性は美しくなければならない」と言われた。自身を「映画を好きすぎる、マニアみたい」と映像で語っている。

私達の観た外国映画は、この夫妻の仕事のおかげだった。また日本映画が海外で日の目を見たのもこの夫妻のおかげだったことがわかった。

2010 年4月11日オープンに、吉永小百合さんからのお花が飾ってあった。


* 鎌倉大谷記念美術館。

ホテルニューオータニの創業者・大谷米太郎の日本近代絵画、大谷米一の近代フランス絵画のコレクションを用いて鎌倉の別邸を改装して開館した美術館。実業家の美術コレクションを楽しみにしていたが、しばらく休館だった。

* 鎌倉文学館。

旧前田侯爵家の別邸。昭和1964 年からは佐藤栄作首相が週末の静養に使っていた。そして三島由紀夫の傑作「春の雪」の別荘のモデルになった場所である。長いアプローチで辿り着く洋館には、「長楽山荘」(聴濤山荘から変更)という表示がある。鎌倉には川端康成、久米正雄、高見順など文士が多く住んでおり、鎌倉文士という言葉もあった。彼らは鎌倉ペンクラブを結成し活動を行っていた。

特別展は、「高浜虚子 俳句の日々」だ。郷里の先輩である子規は清という本名をもじって「虚子」という俳号を与えた。

子規が碧梧桐から「小説では飯が食えぬ」と虚子(1874-1959 年)が言っていることを聞いて激励の手紙を送った。その返事に「飯が食えぬとはそも何事ぞや」という文章を添えた。「貴兄は飯をくふ為に生まれて、、」「小生友なし 只貴兄及び青桐兄を以て忘年の友となす」「只其意志を貫けと言ふのみ」「「目的物を手に入れる為に費すべき最後の租税は生命なりと言ふことを記憶せよと言ふのみ」という文章を子規は名文と讃えている。

永き日や欠伸うつして別れ行く(愚陀)は若き日の漱石の作。

遠山に日の当たりたる枯野哉

時ものを解決するや春を待つ

春風や闘志いだきて丘に立つ

神にませばまこと美はし那智の滝

虚子は中学で生涯の友・碧梧桐に会う。子規に兄事しながら虚子と碧梧桐は切磋琢磨していく。子規は「碧梧桐は冷かなること水の如く 虚子は熱きこと火の如し」と評した。碧梧桐は写実派、虚子は理想派と呼んだ。この二人は後に袂を分かつ。季語に重きを置かず、5/7/5の定型にしばられない新傾向俳句を碧梧桐は目指した。対して虚子は「制約があるが故に俳句なり」と自ら守旧派と称した。1937年碧梧桐の死去に際して「碧梧桐とはよく親しみ、又よく争うた」と虚子は語っている。

虚子は俳人初の文化勲章をもらっている。子規がいきておれば当然この勲章は子規がもらっただろうと述べている。子規と虚子の間には様々のことがあったが、結果として子規の仕事を継いだのは虚子だった。

鎌倉は雨の中なり時鳥(ほととぎす)

去年今年貫く棒の如きもの

* 俳句は花鳥風月(人事を含む自然)をよく見て、その感動を諷詠する(整った調子で詠む)詩である。
* 俳句は戦争の影響を何も受けなかった
* 理論で人を導くといふよりも選句で人を導いていくといふことが最も力強いこと」
* 文学には地獄の文学と極楽の文学がある。俳句は後者である。
* 、、、平明なる俳句は好きだ。晦渋なる俳句は嫌ひだ

この庭園にあるバラ園は見事だった。


* 古屋信子記念館

鎌倉文学館の近くにある作家・古屋信子の旧居。市民の生涯学習の場として開放されている。何か催し物をやっていたので庭を見物。


帰りに、大仏と観音を見物。









お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2013/11/26 11:50:13 AM
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.